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冊子「拉致監禁」シリーズ 3 反対派の悪辣な手口
4 反対派の情報に翻弄された両親
−統一教会の真実を知り、親娘が和解−
3回目の脱会説得
敏男さん夫婦は、2回目の脱会説得失敗後、すぐ次の準備を始めた。
最初は東北地方から上京して、反対父母の会で勉強していたが、やがて新潟・新津市の松永堡智牧師を紹介され、毎週末、夫婦で同牧師の教会に通うようになる。毎週土日を利用し、車で片道4時間をかけて新潟まで通う。そんな生活が2年間も続いた。
「日曜日の午前中は礼拝の説教で、午後からは救出のための勉強会がありました。そこで、拉致のやり方などを勉強するのです」
勉強会では、自らの子供を拉致監禁して脱会させた元信者の親たちが、「最低4人くらいの親族の協力がなくては難しい」などと、自分の体験談を交えながら説明した。
「松永牧師は、朝少しばかりあいさつをする程度で、その後は顔を出しませんでした。おそらく脱会説得のため、あちこち飛び回っていたのではないでしょうか」と敏男さん。
「新潟では当時、(脱会説得の)順番待ちが280数人いました。教会に監禁予定者の一覧表が貼ってあったわけではありませんが、『お宅は何番ですよ』と言われるのです」
ほぼ、その番号順に拉致監禁が実行されていったようだ。統一教会員に対する脱会説得がシステム化されていた。
拉致監禁を実行する直前、松永牧師から直接の指導があった。
「松永牧師から、『もう順番が来たので早く連れてきなさい』と言われました。具体的な拉致の指導もありました。本人が仕事場から帰って来るとき、親戚の人をうまく配置して娘が逃げないよう車に押し込む、といったような内容です。親戚を数人集めて、松永牧師がそういう話を教えるのです」。
明子さんが当時住んでいたのは、夫の実家のある福島県。95年11月上旬の夕方6時半、明子さんが勤務先から帰る時間帯が狙われた。
当時、小学校の事務のアルバイトをしていた明子さんは、仕事が終わって学校の駐車場まで行ったところ、両親や兄、親戚の人たちに突然拉致された。そのまま新潟県新津市のマンションに連れて行かれ、12月末まで監禁されたのである。
敏男さん夫婦は、私立探偵を雇って明子さんの居場所を調査した。調査費用だけでおよそ100万円かかったという。
「私立探偵が居場所を突き止めてくれました。娘がどういう生活をしているのかを調べた上で、私たちが直接行って娘であると確認しました。仕事場から帰ってくる時間も調べ上げていました」。
その時の松永牧師からの指示は「マンションに入れてください。後は私たちが説得しますから」というものだった。
新潟のマンションで監禁が始まると、毎日5人くらいの元信者が入れ替わり立ち替わりやって来て、明子さんに「(監禁されて)大変ですね」「私たちもこうだったんだよ」などと話しかけてきた。
松永牧師は、監禁後、一週間くらい経ってから説得にやって来た。
「私としては、祝福(結婚)を全うすることだけ考えていました。理論で反抗していくと、監禁が長引くだけなので、『教会を辞め、私たちは普通に暮らしている』と話しました。ただ、田口さんの時も『やめた』と言って逃げ出したので、今回はもっと大変だろうと覚悟はしていました。一方、両親に対しては『主人がすごくいい人で、幸せになれると思ったから結婚した』と話しました。父はそれを受け入れてくれたところがあったと思います」と明子さんは語る。
2回目の監禁のときと同様、明子さんは「偽装脱会」を試みた。松永牧師との面談の時間は、まさに「命懸け」の心境だったという。
「松永牧師は、私の語った内容を後で全部調べるような感じだったので、『この一言によってどうなるか』と思うと、内臓が口から飛び出してくるような、そんな感じでした。
また、松永牧師は面談の後で必ず父に状況を説明し『今の段階では嘘がないと思うけれども、あれはちょっと』などと言うのです。それは本当に刃物を突きつけられるような感覚で、毎日毎日がそういう霊的戦いの連続でした」
松永牧師の直接の審査に加えて、2回目の監禁時と同様に元信者による審査もあった。
「『リハビリ』と称して、私と脱会した人々だけで外に食事に行って、個人的な話をしたりしました。ただそうした場でも、トイレに立つ時には、1人が私の前に立って、後ろにも別の1人が付いて来るのです。『リハビリ』は、監禁の最終段階で行われました」
そうしたいくつかの審査を経た上で、明子さんは解放された。松永牧師が、明子さんは「脱会した」と判断したためだが、解放にあたっては敏男さんの後押しもあった。
「ずっと説得したら、父も『幸せならそれでいい』と認めてくれました」と明子さん。明子さんが解放された日は、年の瀬の押し迫る95年12月29日、みぞれが降る寒い日だった。約2か月ぶりに夫のもとに帰ることができた。
3 反対派の悪辣な手口
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