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強制改宗をくつがえす統一神学

アダムとエバの堕落の性的解釈は間違っているという批判

 統一原理は、アダムとエバの堕落は、蛇に象徴された天使長ルーシェルを中心として不倫の愛の性的関係を持ったことにあると教える。神の戒めで取って食べてはならないといわれた善悪を知る木の実は、文字通りの果実ではなく、エバの愛を象徴したものであると教える。これに対して、福音派を初めとする既成のキリスト教は、堕落は、文字通り木の実を取って食べて神の戒めに背く不従順、高慢にあったと主張して、統一原理の性的解釈は間違っていると批判する。しかし、既成のキリスト教の解釈は、歴史的に見るとアウグスティヌス (Augustinus) によって確立されたものであり、彼の絶大な影響力からして、以後のキリスト教の主流とはなったが、それが正しいという理由はどこにも無い。むしろ、アウグスティヌス以前のアレクサンドリアのクレメンス (Clemens Alexandrinus) や四大カトリック教会博士の一人であるアンブロシウス (Ambrosius) などが、禁欲主義に基づいて、堕落とはアダムとエバが禁欲を破ってルーシェルを中心に肉体的愛の関係を持ったことにある、といった解釈の方が正しいようである。その方が統一原理の立場に近い。統一原理の性的解釈が、アウグスティヌスを中心とした既成のキリスト教の解釈と比べて、如何に整合性があり優れているかを以下に示そうと思う。

 堕落に関する既成のキリスト教の解釈を確立したアウグスティヌスによると、堕落は個々人が行ったものであるという。彼は、マニ教の宿命論に反対して、個人の自由意志による決定が鍵を握ることを説いた。彼の『神の国』14巻13章によると、ルーシェルとエバとアダムはそれぞれ神から自由意志を与えられていて、それぞれ自分の自由意志によって神の戒めに背いて自分を高め、不従順、高慢になり、堕落することを選んだのであり、他者からの影響を受けて堕落したのではないという。勿論、木の実を食べる行為をする時に、ルーシェルがエバを誘い、次にエバがアダムを誘ったという側面もあるが、それは既にそれぞれが自由意志で堕落してしまった後の結果であるに過ぎないという。

 統一原理も、アダムとエバの堕落の中に不従順があったことは認めるが、それが個々人の自由意志から来たとは認めない。『原理講論』によれば、自由意志は神から与えられたものなので、それは必ず原理と責任と善なる実績を伴うわけで、それによって堕落することはあり得ない。人間の堕落は飽くまでも、自由意志がその志向する力よりも強い「非原理的な愛の力」の誘惑によって拘束されたところに起因するのである (125-127頁)。このように、自由意志によって堕落したのではなく、かえって堕落によって自由意志を失ったのである。だから統一原理は、堕落は、個々人の自由意志を行使する責任分担を果たそうとする矢先に、不倫の性的愛の関係が入り込んで横行したことにあるとして、個人的選択性よりも関係性の次元に重きを置く。

 関係性の次元に注目する統一原理の性的解釈の方が、既成のキリスト教の解釈よりも聖書的である。聖書の中でイエスが「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」(ヨハネ伝8:44) といわれ、我々を「へびよ、まむしの子らよ」(マタイ伝23:33) と呼ばれたことからして、堕落してサタンになったルーシェルが我々の親であり、我々がその子供であるという血縁関係ができてしまったことが分かる。これは、サタンとエバとアダムが不倫の愛の関係により罪の血統を作り、罪の子女たちを繁殖したという統一原理と一致する。またイエスは、サタンを「この世の君」(ヨハネ伝12:31) と呼ばれたが、これも、アダム・エバの罪の家庭から、氏族、民族、国家、世界へと繁殖するに応じて、サタンの君臨する主権が拡大したという統一原理と一致する。ところが、既成のキリスト教の解釈は、ルーシェルとエバとアダムの堕落をそれぞれに切り離して考えるので、サタン中心の血統関係とか主権とかいう概念が存在せず、イエスのいわれたことを説明できない。(ただし、キリスト教の歴史を見ると、サタンの主権という概念は、11世紀頃までは少し存在したことがあったが、その後はすっかり無くなってしまった。)

 統一原理の性的解釈の方が既成のキリスト教の解釈よりも優れているもう一つの理由は、アダムの原罪が子孫に伝播されるメカニズムを矛盾なく説明できるということである。アウグスティヌスは、原罪の伝播にコンクピスケンティア(情欲concupiscentia) の役割を考える。彼によれば、このコンクピスケンティアは堕落の結果生じたものであり、堕落の原因ではない。しかし堕落後は、いくら信仰的な親でも、生殖のために性的関係を結ぶ時には、このコンクピスケンティアから絶対に逃れられないから、性的関係を通して原罪が親から子供に伝播するという。統一原理による堕落の性的解釈によれば、アダム・エバの堕落の瞬間からサタンを中心とした罪の血統が成立してしまっているので、このアウグスティヌスの理論は当然である。

 しかし奇妙なことに、このアウグスティヌスの理論は、彼の初めの主張、すなわち、堕落は個々人の行いであり、性的関係ではなく、文字通り木の実を取って食べたことにあるという主張とはどうしても相容れない。既成のキリスト教はこの矛盾に気が付かないか、あるいは気が付いたとしても説明しようともしない。この矛盾の解決が無いので、近世以来、多くのキリスト教徒が、原罪はアダム個人の問題なのに、何故自分達がそれを背負わなければならないのか、と疑い始め、原罪の伝播を否定するようになり、混乱が生じている。統一原理を知れば、このような混乱は起こらない。

 最後に、興味ある話をひとつ。それは、多くの聖書学者による理論であるが、創世記3章のアダムとエバの堕落に関する記述がなされた頃は、性的快楽、多産、不死などの目的で、蛇を神のように崇拝して性的不道徳を行ったカナン人の祭儀が広まった時代でもあったので、聖書記者はそれを批判する意図で書いたということである。だからこの部分の聖書の記述は、アダムとエバの堕落は性的堕落にあったといいたかったとのことである。

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目次

冊子・ビラ・書籍
我らの不快な隣人
人さらいからの脱出
日本収容所列島
踏みにじられた信教の自由
「原理講論」に対する補足説明
冊子「拉致監禁」シリーズ1
痛哭と絶望を超えて
冊子「拉致監禁」シリーズ2
その時警察はどう動いたか
冊子「拉致監禁」シリーズ3
反対派の悪辣な手口
強制改宗をくつがえす統一神学
序言
聖書の権威を否定しているという批判
理性によって神を知るのは傲慢だという批判
神の悲しみの教説は神の完全性に反するという批判
霊界の存在を信じるのはオカルト的だという批判
アダムとエバの堕落の性的解釈は間違っているという批判
神の絶対予定を否定しているという批判
カルヴァン主義の五特質 (TULIP) に反しているという批判
人間を神扱いしイエスを人間扱いする傲慢で冒涜的なキリスト論だという批判
自力信仰であるという批判
十字架贖罪を否定しているという批判
真のご家庭に対する批判
社会問題を引き起こす悪なる団体だという批判
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