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強制改宗をくつがえす統一神学

霊界の存在を信じるのはオカルト的だという批判

 統一教会は霊界の存在を信じ、善霊や悪霊による霊現象について語り、いわゆる先祖解怨などもするので、霊界の存在を軽視する福音派を初めとする既成のキリスト教は、統一教会がオカルト的だと批判する。オカルトという言葉は「隠された」という意味のラテン語 occultus から来ていることからも分かるように、自らの正統性を主張する福音派などは、統一教会による霊界の存在についての教えが得体の知れない異教的な「隠し事」みたいなものである、と非難したいのであろう。しかし、新約聖書の福音書によると、2000年前のイエスご自身も、既に他界していたモーセやエリヤと変貌山で話をしたり、悪霊現象に対処して悪霊を追い出したりされている。福音派を初めとする既成のキリスト教は、これをオカルト的とはいうまい。イエスの本来の願いを受けて立つ統一教会もイエスと同じように霊現象に対処しているのである。

 今までのキリスト教は、イエスご自身が霊現象に対処された事実を忘れて、霊界の存在を軽視または無視するようになってしまったが、それには少なくとも二つの大きな理由があった。

 第一の理由は、もしアダムとエバが堕落しなかったならば、肉体の死は無かったはずであり、人間は地上に永遠に住むはずであった、と信じるが余り、死後の世界としての霊界の必要性をそれほど強く感じなかったからである。それによると、勿論、実際には人間始祖の堕落により、肉体の死が天罰として起こるようにはなったが、しかし、その肉体の死はイエスの十字架による死と復活によって「滅ぼされた」ために、信仰者は肉体の死後も終末において「肉体の復活」にあずかる特典を受け (1コリント書15:20-26)、この肉体の復活がある限り霊界に関心を持つ必要がなくなる、というのである。

 しかし、この論法には様々な無理がある。何故ならば、先ずこの論法によると、神はアダムとエバの堕落によって永遠の地上生活の可能性が無くなってしまった後に初めて霊界を創造されたことになるからである。しかし、聖書には「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1) とあるように、(天と地がそれぞれ霊界と地上界を指しているかどうかの解釈の問題は別にしても)、少なくとも、神が初めから霊界と地上界の両方を含めた全ての被造物を創造されたと見るのが自然である。次に、信仰者は肉体の死後も終末には肉体の復活を受ける予定なので、霊界に無関心になってしまうのであろうが、この論法によれば、肉体の死後すぐに肉体の復活があるのではなく、終末の時まで待たねばならないのだから、復活を待つその期間 (終末論では「中間状態」intermediate state と呼ばれる期間) は、少なくとも霊界での期間ではなかろうか。だから霊界を無視してはならないであろう。もう一つの問題は、いよいよ終末が来て肉体の復活にあずかったとしても、その復活した肉体というのは、パウロが2コリント書15:42-44でいっているように、決して地上界で持っていたような肉体ではなく、あくまでも霊界の次元に属する朽ちない「霊のからだ」なので、肉体の復活後も、霊界での生活が続くはずである。だから、この意味でも、霊界を軽視したり無視したりすることはできないはずであろう。

 統一原理は、これらの無理難題を解決することができる。『原理講論』によれば、神は、人間が堕落しなくても初めから霊界と地上界の両方を創造されたのであり、決して、人間堕落後に霊界を創造されたのではない (210頁)。そして、人間の「肉身」は地上界での命を全うすれば死に、「霊人体」だけが霊界に行って永生するように創造されたのである (210-211頁)。また、肉体の復活というのは、終末の時まで待たずに、「肉身」が死に「霊人体」が霊界に行くその瞬間に、「霊人体」の中に形状的部分として元々あった「霊体」(86頁) が前面に出て、それが体の役割を担い始めるという形で生じるのである。この「霊体」はパウロのいう「霊のからだ」に等しい。肉体の復活は終末まで待たずに、肉体の死の瞬間に生じることは、2コリント書5章にも記されているように、後期のパウロ自身も知っていた。いずれにせよ、統一原理はこのように、初めから霊界の存在の重要性を強調する。

 キリスト教が霊界の存在を軽視するようになった第二の大きな理由は、人間は肉体の死の瞬間、天国に行くか地獄に行くかが最終決定されてしまって、天国に行った人はそのまま天国止まりであり、地獄に行った人はもう霊的成長と救いのチャンスは皆無であり、霊界では原則的に何の活動も無くなる、という決定論主義的な考えがはびこっているからである。ただ、終末になって肉体の復活があれば、天国に行った人の喜びはますます強くなり、地獄に行った人の苦しみもますます強くなるだけであり、その強くなった喜びあるいは苦しみは永遠に続くという。

 しかし、この論法も実に深刻な問題を露呈している。カトリックでは、「父祖の辺獄」(limbus patrum) に行った旧約時代の聖賢や「煉獄」(purgatorium) に行った人は「天国」に移行できる可能性をまだ持っている、と教えるが、それ以外は、カトリックでも、そして「父祖の辺獄」や「煉獄」の概念が無いプロテスタントでも、一旦「地獄」に行ってしまった人間を、その苦しみから解放する道は全く無いのである。失われた一匹の羊をも捜し求める (マタイ伝18:12-14、ルカ伝15:4-7) 真の愛の神が、このような無慈悲な教えを果たして容認されるだろうか。それで、キリスト教徒の中には、この問題を解決するために、霊界の救われにくい人にも救いの機会を与えようとして、東洋の輪廻思想をキリスト教の中に取り入れている者もいる。しかし、統一教会は輪廻思想ではなく、霊界に行ってしまった救われ難い「霊人体」が地上人に「協助」して、地上人の立てる善の功績、功労を受けて次第に救われて行く道がある、と教える。霊界の「霊人体」が霊的成長と救いを必死に求めることから来るこの「協助」現象ゆえに、霊界は決して静かではなく非常に活動的である。だから、旧約聖書も、サウルが口寄せを通して霊界のサムエルと話したこと (1サムエル28:7-19) などの霊現象を記しているし、新約聖書も、既に述べたように、イエスにまつわる霊現象を多く報告している。

 ついでながら、それ以外にも、聖書全体を通して、霊的存在である天使の活動も沢山報告されている。キリスト教徒が、霊界の一部である天使界のこのような活動を信じるならば、霊界を軽視したり無視したりすることはできないであろう。

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目次

冊子・ビラ・書籍
我らの不快な隣人
人さらいからの脱出
日本収容所列島
踏みにじられた信教の自由
「原理講論」に対する補足説明
冊子「拉致監禁」シリーズ1
痛哭と絶望を超えて
冊子「拉致監禁」シリーズ2
その時警察はどう動いたか
冊子「拉致監禁」シリーズ3
反対派の悪辣な手口
強制改宗をくつがえす統一神学
序言
聖書の権威を否定しているという批判
理性によって神を知るのは傲慢だという批判
神の悲しみの教説は神の完全性に反するという批判
霊界の存在を信じるのはオカルト的だという批判
アダムとエバの堕落の性的解釈は間違っているという批判
神の絶対予定を否定しているという批判
カルヴァン主義の五特質 (TULIP) に反しているという批判
人間を神扱いしイエスを人間扱いする傲慢で冒涜的なキリスト論だという批判
自力信仰であるという批判
十字架贖罪を否定しているという批判
真のご家庭に対する批判
社会問題を引き起こす悪なる団体だという批判
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