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強制改宗をくつがえす統一神学

理性によって神を知るのは傲慢だという批判

 『原理講論』の創造原理は、作品を見て作者の性質を知ることができると同じように、神の作品である被造世界を見ることによって神について知ることができる、と述べている (42頁)。これに対して、特に福音派は、信仰の次元で神の一方的な啓示によってしか神を知ることはできないのであって、被造世界を見て、分析して、人間の理性で以って神を知ろうとするのは傲慢である、と批判する。確かに、信仰が一番重要であることは殆どの信仰者が認めることではあるが、キリスト教全体を見ると、理性の役割をも認め評価する多くの信仰者がいることも事実である。だから信仰のみを重視し理性を無視する福音派だけが正しいという保障はどこにも無い。また、福音派がこの件で統一教会を批判する時、その教えの全体像を見ずに一部分だけを取って批判しているのであり、めくらが、手で大きな象の一部だけを触り、それが象の全てであると主張して問題となったというインドの釈迦牟尼の譬え話に似ている。実は、統一教会の教えは、福音派が批判する人間の理性の役割だけではなく、それ以前に神の啓示を受ける信仰を持つことの重要性についても述べている一つの膨大な体系なのである。

 先ず、統一教会が如何に神の啓示を重視し、またそれを受けることのできる我々の信仰の重要性を説いているか、を見てみよう。それを見れば、信仰を重んずる福音派がうなずけるところもあると思う。統一教会は、計り知れない神と神のみ旨については決して人間の理性や分析を通して知ることができるものではなく、信仰を通して神から受けるものである、と考える。だから『原理講論』も、「人間を生命の道へと導いて行くこの最終的な真理は、如何なる経典や文献による総合的研究の結果からも、また如何なる人間の頭脳からも、編み出されるものではない」のであり、「あくまでも神の啓示をもって」与えられるものである、と述べている (38頁)。統一教会のメンバーであれば誰でも知っているように、文鮮明師は信仰生活のモットーとして「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」をいつも強調される。信仰によって自己を低くし無にして他人のために歩めば、大気圏で低気圧に向けて周囲の高気圧から風が流れ込んで来るように、神の啓示と神の援助が流れ込んで来る、というのが師の信念である。

 しかしながら、文師の統一原理によれば、話はここで終るのではない。何故ならば、人間が救いの過程で霊的に成長すれば、堕落によって失った「創造本性」を次第に復帰するからである。この人間の「創造本性」は、キリスト教では創世記2:17 に見られる 「神のかたち」(Imago Dei) に相当し、これは神から本来与えられた理性、自由意志、授受作用の能力などであるとされる。だから人間が霊的成長に応じて「神のかたち」が復帰され、その中の理性が復帰されて行けば、神を知る上での理性の役割が生じて来るはずである。福音派はこの点を見逃しているようである。

 実際、キリスト教の歴史において、理性の役割が信仰との関係で論じられて来た。大別すると四つの見解がある。第一の見解は、神を知るのは信仰のみによるのであり、決して理性によるものではないとするパウロ、テルトリアヌス (Tertullianus)、宗教改革のルターなどの見解で、勿論、福音派もこの見解を持つ。第二は、理性を信仰の土台の上に置き、先ず信仰があった上でその次に理性が働くようになるという12世紀初頭のアンセルムス (Anselmus) の見解で、彼が「知解せんがためにわれ信ず」(Credo ut intelligam) といった言葉はこの見解を端的に表している。第三は、13世紀のカトリック神学者トマス・アキナス (Thomas Aquinas) の見解で、神の啓示を直接受ける信仰と、被造世界を分析することによってその創造者たる神を間接的に知る理性は、それぞれ独立したものではあるが、両者は矛盾せずに互いのために役立つ関係を持つという。第四は、信仰と理性の完全統一を主張した18世紀の合理主義者ライプニッツ (Gottfried Leibniz) やスピノザ (Baruch Spinoza)、そして19世紀のヘーゲル (Georg Wilhelm Friedrich Hegel) などの見解で、理性は信仰の内容を全部理解できるという。このような様々な見解が存在するのは、人間がその信仰生活の中で霊的に成長すれば、堕落によって失われた理性が次第に復帰されて、神を知る上で理性と信仰とのギャップが次第に狭まって行くということを物語っていると考えられる。理性が聖書のいう本然の「神のかたち」の一部として神から人間に与えられたものであるならば、それを無視してはならないであろう。

 統一原理は、人間は創造後に一定の「成長期間」を通過して完成することになっており、堕落後も救いの過程としてこの「成長期間」を通過することになっている、と教える。だから、この成長期間の初期の段階では、理性の回復がまだごく僅かしかなされていないので、第一の見解のように信仰のみが強調されるだろうし、その後「成長期間」を通過しながら霊的に成長するに従って、次第に理性が回復されるので、第二、第三、第四の見解が次々と現れ、理性の役割が増長して行くのが認識されると考えられる。このように、統一原理は信仰を出発点として四つの見解全てを包括する膨大な体系なのである。

 だから、『原理講論』が、被造世界を見ることにより理性で以って神の性質を知ることができるという時、「成長期間」を通して信仰を通過したという土台の上に立っていっているのであり、決して傲慢な立場ではないことが分かるであろう。統一教会は、最終的には信仰と理性の統一、自然神学と啓示神学の統一、宗教と科学の統一が来ると表明はするが、信仰を初めから軽視するリベラル派とはこのように袂を分かつので、傲慢だという批判は当たらない。

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目次

冊子・ビラ・書籍
我らの不快な隣人
人さらいからの脱出
日本収容所列島
踏みにじられた信教の自由
「原理講論」に対する補足説明
冊子「拉致監禁」シリーズ1
痛哭と絶望を超えて
冊子「拉致監禁」シリーズ2
その時警察はどう動いたか
冊子「拉致監禁」シリーズ3
反対派の悪辣な手口
強制改宗をくつがえす統一神学
序言
聖書の権威を否定しているという批判
理性によって神を知るのは傲慢だという批判
神の悲しみの教説は神の完全性に反するという批判
霊界の存在を信じるのはオカルト的だという批判
アダムとエバの堕落の性的解釈は間違っているという批判
神の絶対予定を否定しているという批判
カルヴァン主義の五特質 (TULIP) に反しているという批判
人間を神扱いしイエスを人間扱いする傲慢で冒涜的なキリスト論だという批判
自力信仰であるという批判
十字架贖罪を否定しているという批判
真のご家庭に対する批判
社会問題を引き起こす悪なる団体だという批判
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