冊子・ビラ・書籍
冊子「拉致監禁」シリーズ 1 痛哭と絶望を超えて
4.残された心の傷 塩谷知子
〈京都聖徒教会での軟禁生活〉
マンションを出てから後、私は、牧師が「リハビリ」と称している生活をするために、京都聖徒教会へ行くことになりました。そこでの生活は軟禁状態でした。
船田牧師の言い分によると、「脱会すると、今まで真実だと思っていたものが完全に否定され、絶望感に陥っており、それが深い心の傷となる。だから、統一原理の間違いをしっかり理解していなければ、普通の生活ができなくなる。社会復帰もできない。そのために正しい真理、聖書の教えを学ばなければならない」と述べ、京都聖徒教会に泊り込みの「リハビリ生活」をしなければならないということでした。
船田牧師は、「信仰は自由だから強制はしない」と語る反面、「(キリスト教を)信仰していったらいい」と言ってきました。強制改宗をしている牧師が、こんな矛盾したことを言っていることに対し、私は「ここには真理はないし、本当に自分が探しているものはない」と感じました。
マンションを出るとき、家族は本当に疲れきった状態でした。それでも父は、母と私がマンションを出る3日前にそこを出て、仕事に行き始めました。
京都聖徒教会での軟禁生活は、私以外にリハビリ中の人が5人、元信者で「保護説得」と称して監禁場所に赴き脱会説得をして、献身的に活動している人が3人、そしてクリスチャンの奉仕者の女性が一人いました。それ以外にも、船田牧師の家族も暮らしていました。
牧師の家庭以外は、みんなで一緒になって寝泊まりしました。食事も、食材を自分たちで買いにいって作って食べるのです。
リハビリ生活の1日目は、母と妹も一緒に寝泊まりしました。しかし、妹は「こんな団体生活は、自分にはできない」と言って、翌日帰り、結局、私と母だけが残りました。
そこでの生活は、朝6時から早天(聖書の学び)があり、その日によってさまざまですが、祈祷会、聖書の勉強会、伝道集会、賛美集会、家庭集会、日曜日には礼拝と、午後1時からは統一教会問題の相談会、月半ばからは、統一教会問題の対策集会に出掛けます。
参加することに対し、強制はされませんが、基本的には「参加するようにしてください」と言われました。
母は、私がトイレに行くときも、洗面に行くときも、ずっと付き添ってきました。しかし母には「娘を信じたい」という思いがあり、そのような監視生活をすることが苦痛だった様子でした。
寝るときは、ドアの近くに元信者の人たちが寝て、私に対しては「逃げるのではないか?」という警戒心からなのか、一番ドアから遠いところで寝るように言いました。
ある時、母が泣いているのを見つけました。私が「どうしたの?」と聞くと、「もう少し子供さんのことを考えて行動してください」と教会の人から言われたとのことで、母は母なりに懸命に努力しているのに、そのように言われたことが、とてもつらかった様子でした。
リハビリ生活に入ってから1週間後、私は「脱会届」を書くように言われました。脱会届を書くときは、すでに船田牧師のもとで脱会した人たちが書いた「脱会届」のコピーを見せられ、「このように書いたら良い」という指導を受けました。そのときの私は、牧師たちの信頼を得ることによってしか外に出ることができない状況でした。
「脱会届」を書いた後、私は母に「パーマをかけに行きたい」と言って一緒に外を歩きました。母と一緒でないと外に出ることは許されませんでしたが、外を歩くことができたときに、「忍耐すれば必ず道は開かれる」と思え、まるで冬を越えて春を迎えてゆくかのような、希望を感じることができました。
私がリハビリの生活をしているときに、主人が友人と共に、京都聖徒教会を訪ねてきてくれたことを、後から聞いて知りました。
そのとき主人は、「知子さんは、今は会いたくないと言っています」と言われ、追い帰されたそうです。主人は、東京からわざわざ私を捜して訪ねてきてくれたのですが、私に会うこともできず、追い返されたのです。そして私は、彼が訪ねてきたことすらも全く知らされなかったのです。
リハビリ生活が始まってから、20日が過ぎた頃、母は少しずつ体調を崩し始め、その様子を見た京都聖徒教会の人が、「知子さんもしっかりしてきたので大丈夫でしょう」と言われ、母は自宅へ帰っていきました。
母が一緒にいる期間は、お風呂は船田牧師の家のお風呂に入り、洗濯は、母が外のコインランドリーでしてくるような状況でした。しかし、母が家に帰ってからは、状況が変わりました。私が一人で外出することは許可されませんでしたが、だれかと一緒ならば銭湯や、コインランドリーに出かけられるようになったのです。
1 痛哭と絶望を超えて
|