冊子・ビラ・書籍
冊子「拉致監禁」シリーズ 1 痛哭と絶望を超えて
4.残された心の傷 塩谷知子
〈監禁されたマンションの中で〉
パニックになっている私に対し、両親は「知子すまん。これしか方法がなかったんや」と何度も言いました。私は、「こんなことして良心が痛むでしょう!」と言いました。
部屋は、厳重に鍵がかけられており、トイレに行くときも父が見張っていました。
無理矢理連れて来られた時のショックは、体が覚えており、異常なほどの恐怖心と、寝るときにも私が逃げないよう、家族が常時見張っていましたので、強い精神的圧迫を受け、苦痛を感じる日々が始まりました。
両親は、「話し合いをしたい」、「統一教会のことを知りたい」、「統一教会に詳しい牧師の話を聞いてほしい」などと言って、私に詰め寄ってきました。しかし、いくら話しをしても平行線でした。
結局、「話し合い」というのは建て前であり、それは、何が何でも統一教会の信仰を捨てさせようとする一方的なやり方でした。私は「とにかく逃げるしかない」と思い、3日目の明け方4時頃、ベランダの窓の鍵をあけて外にでました。見ると、そこは8階でした。下に降りることさえもできず、やむを得ず、私は2軒先の家まで塀を飛び越えて渡り、朝、その家の人が起きてきたら助けてもらおうと思いました。
ところが、両親に見つかってしまって、どうすることもできず部屋に戻りました。
それから数日後、元信者の女性や、船田牧師が訪ねてくるようになりました。最初は、統一教会関係の本をたくさんもってきて、『原理講論』の間違いなどを話して帰りました。
私はいったいどうすればいいのかわからず、神様にただ祈るばかりでした。一方的に批判を聞かされる私は、端的に言えば、笑えばいいのか?泣けばいいのか? また、親の前で、牧師の前で、反論してもいいのか? 彼らにどのように接すればいいのかさえも分からず、ずっと悩んでいました。なぜならば、私が何を言っても、彼らはそれを受け入れてくれなかったからです。特に、船田牧師はそうでした。船田牧師は、統一教会の信仰を持つ人に対して、「狂った者」「きちがい」としか思っていませんでした。
そんな日々を過ごしていたある日、母のレポート用紙の中から、今回の監禁にあたっての綿密な計画が書いてある紙をみつけました。そこに、私をどのようにマンションに連れていくのか、マンションの中での生活内容、注意事項、親がとるべき姿勢、お風呂には2人で入るなど、細かい指導が書き込まれており、さらには、私が「脱会届け」を出したあとで、リハビリの生活が必要であることまで、さまざまなことが書かれてあったのです。
両親が牧師の指導を受け、その指導に全面的に従っているのがわかる内容でした。それを見たとき、私はさらにショックを受け、「もうだれも信用はしてはいけない」と固く心に決めたのです。
そして、その計画書の内容で、私が脱会を決意するまでは、どんなことがあってもここから出してもらえないということを、再認識させられました。
船田牧師は、私が監禁されてから2週間ぐらいまで、ほぼ毎日、マンションに訪ねてきました。その中で、統一原理の内容と従来のキリスト教の聖書解釈との違いを比較して批判し、さらには、文鮮明師の路程についても批判し、私の信仰すべてを否定してきました。
私は心の中で、「人が神様から受けた啓示に対して、どうして他人がそれを嘘だと言い切れるのか? その根拠がどこにあるのか」と思いました。それは、本人と神様との間でしかわからない出来事であるはずなのに、それを、あたかも文師が嘘をついているように牧師は決めつけるのです。
そんな牧師の姿を見て、「うそをつかせてここに、連れてこさせたのはだれだ!?それを指導したのは、あなたではないか!」と感じて、その矛盾に満ちた牧師の姿勢に対し、私は到底受け入れることができませんでした。
しかし、ここから出ようと思えば、「偽装脱会するしかない」と思い、私は何一つ反抗せず、ただただ忍耐し続ける日々を続けざるを得ませんでした。なぜなら、私のマンションの中での生活態度が、いつも両親から牧師に報告されていたからです。
私は、本当にくやしくて、くやしくて、その思いをどこにもぶつけることができず、布団を何度も噛んで泣きました。
1 痛哭と絶望を超えて
|