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強制改宗をくつがえす統一神学
自力信仰であるという批判
統一原理は復帰原理において「蕩減復帰」について語り、人間は何らかの蕩減条件を立てることによって復帰されると教える。これに対して福音派は、救いには条件など不必要であり、ただ信じれば無条件で救われると主張し、統一原理は自力信仰を教えていると批判する。
しかし福音派は、人間の救いの全過程を見ることなく、その一部だけを見て、それが全てだと思う間違いを犯している。確かに、堕落人間は、最初は霊的に余りにも幼く神から遠いので、独りでは何もできない。それで、人間の救いは神の一方的な愛によって決められ開始されたと考えられる。しかし、それが全てではない。救いの過程において次第に成長すれば、人間も何らかの責任を果たすことによって、神が願われる救いの完成に向かうようになっている。
だからアウグスティヌスも、その著『恩寵と自由意志』の33章において、救いの過程を大きく二段階に分けて、第一段階では、堕落人間はその自由意志が弱小で殆ど無いにも等しいので、人間による条件とは関係なく無条件に、神が一方的に与えて下さる「効力的恩寵」(gratia operans) によって、救いの方向に向かうが、第二段階では、自由意志が次第に回復されて大きくなっているので、神の「協力的恩寵」(gratia cooperans) の下に条件を立てながら救われて行く、と主張している。神と人間が協力するという第二段階を聖書からサポートするために、アウグスティヌスは「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて」(ローマ書8:28) という聖句を引用する。アウグスティヌスは、カトリックは勿論のことプロテスタントのルターやカルヴァンにも大きな影響を与えた神学者であるが、カトリックは彼のこの理論の中での第二段階を主に採用し、プロテスタントは第一段階のみを採用したといわれている。しかし、アウグスティヌスの理論の全体像を見るべきであり、特にプロテスタントの福音派などのように、第一段階だけにしがみ付いて、狭い分野で、ただ信じれば無条件で救われると主張し続けるのはよくない。ヤコブ書2:24 も「人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない」と述べているではないか。
アウグスティヌスの理論での第二段階は、第一段階を一旦通過しているので、そこで成長した自由意志によって責任を持って条件を立てても、それは自力信仰ではない。しかも、その自由意志の背後には神の「協力的恩寵」が共にあるのである。同じように、統一原理が、復帰のための蕩減条件を立てることを教えていても、長い復帰の過程を通過するのが前提になっているし、また、背後に神の責任分担が共にあるので、それは自力信仰を薦めているのではない。統一原理によれば、堕落人間の復帰の過程は、全く自由の無い僕の僕の段階から始まって、僕の段階、養子の段階、庶子の段階などを通過して、神の実子の段階に到達して神に戻って行く過程である。そして、この過程を通して次第に責任性と創造性のある人間に成長して行くのである。このように獲得された責任性と創造性からは、神と衝突するような自力が生じないのが原則である。かえって、救いの過程の当初の段階だけにしがみ付いて狭い分野で信仰生活をする福音派の方が、神の全体的摂理過程を無視して、皮肉にも、神に反する自力信仰のような間違いを犯す結果になってしまっているのではなかろうか。
また福音派は、信仰のみによって無条件で救われるというが、信仰を持つことが救いの条件にもなっていることに気付くべきであろう。12年間も長血をわずらった女が信仰で以ってイエスの衣を触り自分の病気が治ったので、イエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」(マタイ伝9:22、マルコ伝5:34) といわれた。また、聖書は、このような人間の信仰は神を喜ばす条件になるといっている (ヘブル書11:6)。統一原理も、信仰者が復帰のために信仰条件を立てる必要性を説き、それを「信仰基台」と呼ぶ。ただ、エペソ書2:8などには、信仰は人間から出たものではなく神の賜物である、と書いてあるので、福音派などは、信仰は人間が立てる条件であるはずはなく、人間はやはり無条件で救われると主張し続けるが、このような聖句は飽くまでも、救いの過程の一番初めの段階で人間が極めて無力であることを強調するためのものであったと取れるであろう。
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