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強制改宗をくつがえす統一神学
真のご家庭に対する批判
多くの反対牧師たちは、真のご子女様の問題、特に孝進様の問題を取り上げて、真のご家庭を批判し、真のご家庭の価値を否定しようとしている。それに対してコメントをしてみようと思う。
筆者はアメリカ在住の日本人として長年の間、孝進様とは個人的な交流があった。1975年のある日、筆者が教会の館のある部屋の中で独り感傷に浸りながらクラシック・ギターで叙情的な調を弾いていた時、突然その部屋に、13歳の腕白盛りの孝進様が大声で友人と追いかけっこをしながら走り込んで来られた。しかし、ギターのメロディーを耳にされた途端、孝進様は筆者の直ぐ前に座り込み、しんみりと聴かれたのである。曲が終ったら、もう一曲アンコールされ、筆者の腕前がそんなによくないのに、それにもジーッと耳を傾けられた。さきほどの腕白ぶりはどこに行ったのやら。その時、孝進様が如何に芸術的な美に敏感であられるかを知った。
その後、青年となられた孝進様と、あるきっかけで交流するようになり、1990年代の初め頃、個人的にご自宅に時々呼ばれて、お悩みがあることなどを打ち明けられた。そのお悩みとは、真のご父母様の実子として、周りから真のご父母様と同じ基準を要求されるプレシャーが余りにも大きいことであった。周りの人たちが未だに大したこともない人間であっても、要求して来る目つきだけは鋭いので、それが耐え難いのだとおっしゃった。筆者としては、ただ静かに忍耐して行かれるしかないと応えるだけだったが、真心を込めて応えたせいか、孝進様は「今日は実にいいことをきいた」と嬉しそうであられた。
その後、統一神学校で筆者の担当する神学の講義も聴講されたが、その時の孝進様の感想文は、未だに未熟な筆者から見ても、宇宙の真理に対する驚くべき神学的洞察と直観が散りばめられたものであった。
このように、筆者の体験によれば、孝進様は素晴らしい感受性と能力を持つ人間であられたことは間違い無い。しかしながら、初めから神と一体化した完成人間である者は誰もいないことも確かである。孝進様も例外ではない。
孝進様の問題には二つの理由があったと考えられる。一つは、一寸前に述べたように、周りにいる我々が未だに大したこともない人間なのに、孝進様に対して、真のご父母様と同じ基準を要求する大きなプレシャーを与えたからである。単なるプレシャーだけだったら、孝進様もはねのけることができたと考えられるが、問題は我々が、真のご父母様の偉大さを他人事のように外的な知識としては知っていても、その内容を自分の実存の中に内的に実現して実感するところまで行かなかったということである。このような不足な状態では、真のご子女様を支えることはできないだろうし、ましてや、真のご父母様を支えることはできない。不足な12弟子たちもイエスを支えることができず、サタンの侵入を許し、イエスを十字架の死に追いやったのではないか。我々も同じような形で真のご家庭を十字架に追いやったのではなかろうか。これは、我々が謙虚に反省して、一刻も早く解決すべき問題である。
第二の理由は、如何なる人間も初めから完全な人間ではないからである。孝進様も例外ではなく、イエス様や真のご父母様といえども例外ではなかった。2世紀の神学者エイレナイオスによれば、アダムは未熟な人間として造られて、一定の成長期間を通過することになっていたという。そして、イエスも「後のアダム」として、アダムの成長の道を踏襲してキリストになられるという理論を提示した。アウグスティヌスによれば、堕落する前のアダムは「罪を犯すことができない能力」(non posse peccare) ではなく「罪を犯さない能力」(posse non peccare) しか持っていなかったので、初めから完全人間ではなかったことになる。統一原理は、人間は成長期間中に責任分担を果たすことによってのみ完成して行くと説く。だから、罪がなくても未だ不完全だったアダムは途中で罪を犯す可能性があったし、実際は堕落してしまったのである。その可能性は誰にでもある。厳密には、祝福家庭といえども未だ完成圏に入っていない限り、同じ間違いを起こす可能性はある。
いずれにせよ、完成圏に入っていらっしゃる真のご父母様に感謝しつつ、我々もその内容を自分の実存の中に内的に実現して実感できるようになるために努力するしかない。完成圏にいらっしゃる真のご父母様を批判することは絶対に誰もできない。
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