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強制改宗をくつがえす統一神学
神の悲しみの教説は神の完全性に反するという批判
統一教会は、神は堕落した人間の悲惨な姿を見ながら、愛するがゆえに悲しみ苦しんで来られたと教える。これに対して、福音派を初めとする既成のキリスト教神学は、神は愛の神であっても同時に完全な神だから、何からも影響や変化を受けるはずはなく、たとえ悲惨な堕落人間を見たとしても、それによって動かされて悲しみ苦しむような神であるはずはない、といって統一教会の教説を批判する。既成のキリスト教神学のこの見解は、完全な神ゆえに同情することも悲しむこともできない一種の冷酷な神を示しているようであるが、これは決して筆者による誇張ではなく、実際、11世紀の有名なアンセルムスも、その著『プロスロギオン』8章の中でこの見解を自分の見解として述べている。しかし現在では、キリスト教内部のあちらこちらで、この伝統的な見解が不適当であることが指摘され、神の悲しみについて見直される趨勢にあるのである。ゆえに、統一教会の教説が正当だったといわれる時が来るのも近いであろう。
その大きな理由は、神の愛も含めて、真の愛とは、相手の悲しみと苦しみを感じなくとも一方的に何かを与えて満足するような愛ではなくて、相手の悲しみや苦しみに同情して自分も共に悲しみ苦しみながら何かをしてあげる愛である、ということが現在多くの人々に理解されるようになって来ているからである。しかも、驚くなかれ、この真の愛についての新しい理解は聖書に基づいているのである。
旧約聖書は神の愛ゆえの悲しみについて多く語っている。創世記6:6 を見ると、神は、人間の悪が地にはびこったのを見て、「地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め」られたとある。また、エレミヤ書 9:1 などには嘆きの神の涙が記されている。だから20世紀最大のユダヤ教神学者エイブラハム・ヘッシェル (Abraham Heschel) も、1963年出版の著『イスラエル預言者』(原題The Prophets、日本語訳、教文館1992, 2004年出版) の中で、神との愛の契約関係を結んだイスラエルの民が神に叛いた時に、神が如何に悲しみ苦しまれたか、を預言者たちはよく知っていたと論じている。
新約聖書の背後にも神の悲しみが潜んでいると直観したのは宗教改革のルターであった。マルコ伝 15:39 を見れば、イエスの十字架上での死の悲惨な光景を一部始終見た百卒長は「まことにこの人は神の子であった」と告白したとあるが、ルターはこのことゆえに、神の本当の性質はイエスの十字架のような苦難の悲しみの真只中にこそ見出され、それが神の愛ゆえの悲しみであるという「十字架の神学」(theologia crucis) なるものを提示した。ルターのこの直観は、18世紀以来のリベラル派の神学では全く評価されなかったが、20世紀になり「新正統主義」のカール・バルトによって見直され、次第に教派を超えた大きな学派を世界的に形成するまでに至った。プロテスタントではモルトマン (Jürgen Moltmann) やユンゲル (Eberhart Jüngel) など、カトリックではラーナー (Karl Rahner) やフォン・バルタザール (Hans Urs von Barthasar) など、それにロシア正教ではブルガコフ (Sergei Bulgakov) やベルジャーエフ (Nicolas Berdyaev) などがこの学派の流れを汲む。『神の痛みの神学』を1946年に出版して世界に知られた日本の北森嘉蔵もこの流れの中に入る。
皮肉にも、聖書を重んじるがあまりに聖書の一字一句の「無誤性」に囚われている福音派は、かえって聖書の本質を見抜けず、聖書が示そうとした神の愛の中に含まれる悲しみと苦しみを無視しているのである。ついでに、福音派が忌み嫌うリベラル派神学も、その人間主義的傾向ゆえに、神の真の愛の中にある悲しみなど全然知らないし、知ろうともしない。だから、これももう一つの皮肉であるが、福音派はリベラル派と全く同じ間違いを犯しているわけである。
では、何故このように既成のキリスト教は聖書の本質から外れた見解を持つようになってしまったのであろうか。それは、キリスト教の神観が、初めから古代ギリシャ哲学の強い影響を受けて形成され、ヘレニズム化されたからである。古代ギリシャのプラトン (Plátōn) やアリストテレス (Aristotélēs) は、聖書的な神の愛を知っていたわけではないので、この世界がいつも変化して不完全であるのに対して、神は不変で完全なる至高の存在であると割り切った。特にアリストテレスは神を形容するのに「不動」(άκίνητον) という言葉を使い、何ものによっても動かされないことが完全であるという定義を下した。キリスト教の神観は、この不変 (不動) イコール完全という単純図式の影響の下に形成されて、神の完全性の名の下に、神の愛から、共に悲しむ同情心の深みを取り除いてしまったのである。
しかし最近では、この図式は多くの神学者たちによって批判され、神の完全性の新しい定義が模索されている。それによると、神の完全性とは単なる不変とか不動にあるのではなく、堕落人間から裏切られて悲しみ苦しんだとしても、それに屈せず、どんなことがあっても人間と再会することを切望する、消しても消えない愛の能力にあるというのである。モルトマンは、その著『三位一体と神の国』の中で、このような神の「切望」(Verlangen nach) について述べている。
統一教会では、これを神の「心情」と呼び、「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」と定義する (『新版統一思想要綱』53頁)。これは「内部からわきあがる抑えがたい」心情なので (前掲書53頁)、途中では悲しみの心情であったとしても、いずれは神の願いを必ず成就する原動力となり、神の完全性と全能性を説明することにもなろう。このように神の悲しみはその完全性や全能性とは矛盾しないのである。これこそ聖書的な神の愛の本質ではなかろうか。聖書の奥義を誰よりも深く紹介した文鮮明師によれば、我々は今までの神の悲しみの心情をできるだけ早く喜びの心情に変えてさしあげ、親なる神を慰労する親孝行の道を歩む子女でなければならないというのである。
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