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強制改宗をくつがえす統一神学
神の絶対予定を否定しているという批判
統一原理は、神のみ旨は、神の責任分担と人間の責任分担が共に果たされることによって成就される、と教える。人間の責任分担もあるというのは、人間の努力も神のみ旨成就のために貢献するということである。これに対して、カルヴァン主義の流れを汲む福音派は、神の予定は絶対であるために、この地上の出来事は全て神の予定によって定められているのであり、人間の努力は一切それに影響を及ぼさない、と主張する。従って福音派は、統一原理は神の絶対予定を否定していると批判する。
しかし、もし全ての出来事に関する神の絶対予定の教説が正しいとしたら、この地上の悪なる出来事、例えば人間の堕落や犯罪なども神の予定によって定められて起きることになり、神が悪の原因になってしまうというおかしな話になる。これについて、カルヴァン主義は、神が絶対予定で以って悪をもたらすのは、我々の知らない神の大きな計画があってのことである、と説明する。しかし、カルヴァン主義がそれを全ての悪に当てはめようとするのは、絶対予定を正当化するための詭弁に聞こえ、善なる神を冒涜するばかりか、歴史的に苦労して来られた神の愛の心情を蹂躙することにもなろう。
また、カルヴァン主義が人間の努力とか人間の責任分担とかを無視するのは、人間を神のロボットのように扱い、神の絶対予定ならば、善なることであろうが悪なることであろうが、全てをロボットのような人間にやらせることになる。しかし、聖書をよく見れば、人間は決してロボットではなく、責任を持って神の摂理に参加することが期待されて来たことが分かる。旧約聖書によると、神は、期待を担ったイスラエル民族が摂理のために善なることをすれば喜ばれ、悪なることをすれば悲しまれたのではなかったか。人間は本来「神のかたち」に造られた (創世記1:27)。これは、統一原理によれば、人間が創造の神に似て創造性を与えられたことを意味する。だから人間は、その創造的努力から来る責任分担を遂行して神のみ旨成就に貢献し、神を喜ばせることになっている。そして堕落後も、人間の責任分担を遂行しながら救いの過程を通って行くのである。
実は、キリスト教を見れば、神の絶対予定と共に人間の努力をも考慮するアルミニウス主義の立場があることが分かる。このアルミニウス主義は16世紀と17世紀初頭に活躍したオランダ改革派の神学者アルミニウス (Jacobus Arminius) の考えから来たもので、カルヴァン主義者たちからひどい批判と迫害を受けたが、後ほどメソジスト教会やホーリネス系の教会などの神学に流れ込み、キリスト教の中で異端視されずに存在している。カトリック内にも、アルミニウス主義に似た学派が16世紀にあった。イエズス会の神学者モリナ (Luis de Molina) によるモリナ主義であり、この学派は、神からの「援助に関する 」(De Auxiliis) 論争で、 カルヴァン主義的なドミニコ会の神学者バネズ (Domingo Báñez) 側から迫害を受けたが、最終的には1607年にローマ法王から異端ではないと公認された。だから、統一原理が神の責任分担と共に人間の責任分担について語る時、福音派は、統一原理が異端であるなどとは絶対にいえない。
ただ、統一原理とアルミニウス主義が神学的に全く同じであるというのではない。神の予定と人間の努力を調和させる方法論において、統一原理とアルミニウス主義は互いに異なる。
先ず、アルミニウス主義によれば、神の予定と人間の努力は神の予知というものによって調和させることができるという。神は、人間がこれから自分の自由意志によって如何なる決定をし如何なる行動をするか、を前もって予知されているので、ご自身のその予知に基づいて、人間がこれから自由意志でするであろう全てのことを予定されるというのである。神の予知によるこの調和の方法は、いささか言い訳のように聞こえないでもない。
次に、統一原理による神の予定と人間の努力の調和法を見てみよう。『原理講論』によれば、神のみ旨に対する予定は、神が絶対者であられるゆえに、絶対である (240-242頁)。従って、人間の努力が不十分でみ旨が成就されない場合でも、神は他の人間を立てて努力をさせて、最終的にはみ旨を成就させなければならない。結局これは、み旨に対する予定は絶対的であるが、み旨成就に対する予定は相対的であるということを意味する (243-244頁)。これは、み旨に対する予定が絶対なのに、その成就が延長されて来たという歴史的現実をよく説明し、聖書に記録されている神と人間の関係をよく言い当てている。
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