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我らの不快な隣人 統一教会から「救出」されたある女性信者の悲劇
第六章 引き裂かれた家族
悪化する症状
勉強会は裁判対策一色となり、監禁の辛さを訴える場がなくなると、麻子と美佐の精神状態は急激に悪化していった。
美佐の場合、戸塚教会の勉強会に顔を出し始めた頃は、3ヶ月に1度の周期で2、3日間ほど鬱(うつ)状態、無気力状態になる程度だった。それが、監禁の苦しさを訴えても黒鳥から軽くあしらわれることが続くうちに、鬱状態は日常的になり、それに頭痛、動悸、吐き気、睡眠障害が加わるようになった。
美佐の症状が爆発したのは「新潟少女監禁事件」が起きたときである。
当時小学4年生だった少女が90年11月に新潟県三条市で下校途中に行方不明となり、2000年1月に監禁した男性の部屋で発見されるというおぞましい事件だった。横浜裁判が始まってから一年後のことである。
新聞はもとよりテレビ、雑誌で「監禁」の2文字が毎日のように飛び交い、否が応でも目にせざるを得なかった。それによって、フラッシュバックが何度も起きるようになったのである。
麻子と美佐は2000年後半からホームページで自分たちの体験や気持ちを明らかにするようになったが、美佐はこのときのことを次のように書いている。〈注三〉
〈連日の監禁事件の報道、電車に乗れば吊り革広告に"監禁"の文字が載っている。"監禁"の文字を見るたびに監禁された時のことがフラッシュバックとなって思い出される。(少女の)親や家族、家庭の話を聞くたびにパニック状態に陥るようになっていった〉
〈新潟の監禁事件は「いつか親が助けに来てくれる」。そういった希望が(監禁中に)あっただけ(まだ)よかったと、羨ましくなり涙が溢れてくる。自分の監禁時のことを思い出すと監禁したのが親であり、兄弟も親戚もそれを容認していた。当然警察も助けてなどくれない。一生ここから出られないという絶望感だけがあった〉
どんなに少年・少女時代、思春期に親子関係が悪かろうが、子どもにとって親は母船のような存在である。どれほど遠くまで航海に出ていたとしても、ひとりでは太刀打ちできないような困難に陥れば、必死で母船に戻ろうとするし、仮に漂流したとしてもいずれ救助に向かってくれるだろうと希望を抱く。
新潟少女監禁事件との比較の是非は措くとしても、その母船であるはずの親が監禁するのだから、他人による監禁とは違った意味で、ショックは大きかった。
この気持ちを、当事者以外が理解することはできなかった。
麻子の精神状態も日増しに悪化していった。
〈体が本格的に自律神経失調症になってきて、寒くても汗が止まらず、ふやけた皮膚は破れて、ひりひりと痛み、冷房で冷えた体は、あちこちと筋肉痛を起こす〉
鬱で動けない。外に出たくない。何もしたくない。何にも興味が持てない。生きていて楽しいと感じない。とっとと死んでしまいたい。いらいらと怒りで何も手につかない〉(日記から抜粋)
黒鳥から見放され、戸塚教会からも相手にされなくなった麻子は、泥沼の底を彷徨うような状態になった。黒鳥からは「もうひとりで自由に生きていいのよ」と言われた。だが、アパートから外に出ても行くところがないし、やるべきことが見つからなかった。
統一教会の「ホーム」には、戸塚のアパートに引っ越してから、荷物を取りがてら、挨拶に行っている。また、脱会直後に、黒鳥から弁護士の山口広を紹介され、献金返還請求と、合同結婚式で結婚相手に決まった韓国人男性との"婚約"破棄の手続きのことを相談した。山口広は統一教会と闘う「全国霊感商法弁護士連絡協議会」(全国弁連)の事務局長で、理絵が訴えた裁判では清水、黒鳥の代理人になっていた弁護士である。
婚約破棄には言葉の問題が障害になり、手紙のやりとりに時間がかかったが、相手の男性は了承してくれた。
献金返還の手続きは、献金額、物品購入額を特定するのに、当時の通帳やメモなどを詳細に検討しなければならなかった。アトピーの痒さに耐えながらであったため2年以上もかかったが、それもようやく解決しつつあった。山口が交渉してくれ、約800万円の請求に対して約400万円が毎月分割払いで振り込まれることになった。
やるべきことはすべて終わっていた。
書道教室に通い始めたり、障害者介護の仕事場の見学に出向いたりしたこともあったが、スーパーの店員さんと話すだけでも緊張してしまう状態では、人との関係を結ぶことはできなかった。
実家に戻ったこともある。しかし緊張のあまり、吐きそうになる。家族で外出したときもそうだった。麻子の気分を盛り立てようと家族はにこやかに振る舞う。すると横浜のアパートでの"家族ごっこ"が蘇り、やはり吐き気を催した。
〈私の感情の根底にはいつも「怒り」がどす黒い重油のように沈殿されており、放っておくと、ただひたすら怒り続けている。喜びとか、嬉しいとか、楽しいとかの感情も、怒りにすぐに打ち消されてしまい、長続きしない〉(日記)
ひとり孤独の中での精神との格闘は限界に達し、最初に美佐が、続いて麻子が心療内科を受診した。診断名は2人とも複雑性PTSDだった。このとき、麻子は36歳になっていた。
ここで、第一章でも述べたPTSDのことを説明しておく。
PTSDとはPost-Traumatic Stress Disorderの頭文字を取ったもので、日本語では心的外傷後ストレス障害と訳されている。PTSDはベトナム戦争の帰還兵に多く見られた特有の症状をもとにアメリカの精神科医たちによって概念化され、80年に『DSM? 精神疾患の分類と手引き』に取り入れられて以後、正式に精神医学体系に登録された。その後、レイプ被害者や被虐待児童も同様の症状を示すことが明らかになり、PTSDは多くの精神科医や心理療法上に支持されていった。
日本で急速に受け入れられるようになったのは、アメリカで学んだ先進的な精神科医たちが95年の阪神・淡路大震災を契機にPTSDを啓蒙したこと、震災に医療者として深く関わった神戸大学精神神経科教授(現名誉教授)の中井久夫が96年にアメリカの精神科医ジュディス・L・ハーマンの『心的外傷と回復』を急遽翻訳し、多くの精神科医や臨床心理士に影響を与えたこと−が大きいと思われる。現在では、交通事故の被害者に対してもPTSDによる後遺症として損害賠償か裁判で認められるようになっている。
分かりやすくいえばこういうことだ。
人は会社の上司の言動や、恋人の冷たい言葉や、近親者の死などによって、しばしば心が傷つくような体験をする。その多くは友人にこぼしたり気晴らしに旅行をしたり、何らかの形で消化し、「過去の体験」にする。ところが、自然治癒がきわめて困難な衝撃的な体験をする場合がある。身体を刃物で切られるようなレベルの、「過去の物語」にすることが困難な心の外傷体験である。具体的に言えば、「戦争、暴行、略奪、誘拐、人質、テロ、拷問、監禁、災害、事故など」の直接体験と目撃である。〈注四〉
麻子の場合はどうだったのか。私の質問に主治医は次のように回答してくれた。
「『本人の意志に反し拉致監禁される』という身体的自由の拘束とともに、『信仰の自由』を強制的に昼夜を問わず奪われ続けたこと、および『最も近しい肉親に監禁された』という信頼を裏切られた体験も加わり、長期に持続・反復する外傷体験による複雑性PTSDです」
自然治癒能力を超えるような体験をした場合、傷はいつまで経ってもかさぶたとなってふさがらず(臨床心理士の西澤哲は「心の異物」と表現する)、様々な症状を呈するようになる。身体に負った傷ならば化膿や壊死などの身体的症状に限られるが、心的外傷の場合は精神的、身体的症状となって現れる。
PTSDの主な精神症状は過覚醒(緊張、神経の高ぶり)、侵入的想起(フラッシュバッグ)、回避・麻疹の三つである。身体症状は「睡眠障害、頭痛、腹痛、喉の渇き、寒気、吐き気、湿疹、痙攣、嘔吐、めまい、胸の痛み、高血圧、動悸、筋肉の震え、歯ぎしり、視力の低下、発汗、息苦しさなど」多岐にわたる。
これら一つ一つを見ていけば、麻子や美佐に現れた症状のすべてが包含されていることに気づく。
行動の変化としてはアルコール、薬物などへの依存行動、食欲不振や過食などの摂食障害になることも珍しいことではない。
第一章に登場した裕美の摂食障害もPTSDの症状と考えられるし、麻子の主治医は麻子の飲酒について「常時反復する、監禁時の情景記憶の侵入的想起を、紛らわすためのもの」と、PTSDとの関連を指摘している。〈注五〉
精神科医や臨床心理士に大きな影響を及ぼした前出の『心的外傷と回復』で、ハーマンは「監禁状態」を「児童虐待」とともに一つの章として取り上げ、次のように記述している。
「世界の中にいて安全であるという感覚、すなわち〈基本的信頼〉は人生の最初期において最初にケアしてくれる人との関係の中でえられるものである。(略)恐怖状況において人びとは自ずと慰藉と庇護の最初の源泉であったものを呼び求める。傷ついた兵士もレイプされた女性も母を求め、神を求めて泣き叫ぶ。この叫びに応答がなかった時に基本的信頼感は粉々に砕ける」
ハーマンは臨床経験から「傷ついた兵士もレイプされた女性も母を求め、神を求めて泣き叫ぶ」と指摘しているが、麻子たちはその親から監禁されたのである。