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被害者の声
陳述書
小林宗一郎 − 警官が家族に圧倒されて立ち去る
陳述書(要約)
小林宗一郎
- はじめに
私は、1971年12月18日に東京都江東区で生まれました。兄弟は3才下の妹がいます。私は1991年4月、千葉工業大学工学部建築学科に入学し、在学中に世界基督教統一神霊協会(統一教会)の教理に触れ、92年5月31日、同教会に入会しました。その後今日に至るまで、私の信仰に反対し、私を統一教会から脱会させようとする親族等から3度に亘って拉致されました。第3回目に拉致監禁された時に私の親族を指導したのは、日本基督教団の清水与志雄牧師でした。 - 第1回目の拉致監禁
1992年11月30日、私が実家で休んでいると、両親の他に父の異父姉とその夫、父の異父姉と高校教諭で講道館の審判を務めるその夫、母の弟が真夜中に私を実家から拉致し、車で上野にあるツカサのウイークリーマンションに連行し、10階のエレベーターからすぐ近くの部屋に監禁しました。ドアには特殊な鍵はありませんでしたが、両親が常時入り口のドアの前に立ちふさがり、私の脱出を防ぎました。また、私は「監禁されています。助けて下さい」と断続的に叫んで暴れましたが、親戚に口を押さえられ、取り押さえられました。両親は、「川崎先生も心配しているんだ」「浅見先生も心配しているんだ」と言いました。川崎先生というのは日本基督教団の川崎経子牧師、浅見先生というのは同じく東北学院大学の浅見定雄教授のことと思いますが、いずれも統一教会に対して激しい反対活動を行っている人達です。私は何とか助けを求めようと思い、脚で窓を蹴飛ばして割り、大声で「拉致監禁です。助けて下さい」と叫びました。すると親族が逆上し、両親は「お前割ったな」と叫び、私の口を座布団で塞ごうとし、他の親族は私を取り押さえました。20分ほどすると、外から複数のサイレンの音が聞こえてきました。それから電話が鳴り、その後、外からノックの音が聞こえました。誰もドアを開けずにいると、再度電話が鳴り、父が出ました。次に銃を携行した機動隊員が2〜3名が部屋に入り、玄関口で父と話しました。その後、刑事部長と名乗る男が私の方に向かってきて、「統一教会の問題は親子の問題なんだから騒がせるな!お前が悪い。人騒がせなことをするな。このように200名ほどの機動隊がピストルを持って来たんだ」と言いました。私も自分が監禁されている事情を説明しましたが、「10階の窓ガラスを割って、下にいた人が落ちてきたガラスで怪我をしたらどうするんだ」と話を別の方向に持って行かれ、まったく取り合ってもらえませんでした。最後は「親に心配をかけるな」と言って引き上げていきました。
私は気が狂いそうな思いがして叫ばずにはいられず、機動隊員が帰ると再度叫び始めました。その後、ウイークリーマンションの管理人が部屋に来て「営業妨害になるから出ていってくれ」と言われました。これを聞いて両親も諦め、家に帰りました。おじは「お前汚いじゃないか。同じ土俵で闘え」と言って帰って行きました。こうして家に帰ったのは12月2日の夜だったと思います。両親等が私を監禁することを諦めたので、私もこのときは家に帰りました。 - 第2回目の拉致監禁
- 3-1.拉致監禁
1997年4月11日午前7時15分、アルバイトに行くために千住警察の近くの道を歩いていると、突然、父が「宗一郎だ」と叫びました。そこには両親をはじめ約20名の男女がおり、この内4名が私に襲いかかり、私は四方から手足を掴まれて担ぎ上げられ、ワゴン車に押し込められました。この時、私は「助けてくれー」と大声で叫びました。ワゴン車の窓はスモークがかけられてあり、客席の窓は開かないように固定されていました。このワゴン車には両親と妹の他、見知らぬ男性が1人乗っていました。親族以外の第三者までが関与していたことから、私に対する拉致監禁が組織的に行われていることを知り、恐怖心が更につのりました。車は千住駅前を経由して千住大橋を渡り、高速道路の入り口に向かって走りました。するとパトカーが追いかけてきて止められました。パトカーはマイクでワゴン車を誘導し、千住警察まで行きました。私は外に出たいと思いましたが、親族から掴まれていたため身動きができませんでした。パトカーの中から警官がやってきて助手席から中を覗き込んできました。すると父が「こいつは統一教会で狂わされているんです。親子の問題なんです」と言いましたが、警察はこれを聞かず、「どうしたんですか?」と私に尋ねてきました。私が「拉致されたんです。基本的な人権があるんだからここから出して下さい」と言いました。すると警官は「本人がこう言っているし、本人の意思もあるんだから、降ろしたらいいんじゃないんですか」と言いました。すると私の拉致を手伝った見知らぬ男女7、8名がその警官を取り囲み、「こいつはマインドコントロールされているんだ」と一斉に叫びました。その警官はこれに圧倒され、遂に「行っていいです」と言いました。そのまま車は再度、千住大橋を渡り、高速道路に乗って、2回目の拉致の際に連れて行かれたサンライズ太田の駐車場まで行きました。他にもワゴン車2台に両親等と共にいた男女が分乗してついて来ていました。親族は私に降りるようにしきりに言いましたが、私は拒みました。最終的には親族と見知らぬ男性に担がれて、サンライズ太田209号室に監禁されました。入り口のドアは南京錠、ダイヤル式の鍵及びチェーンによって三重の鍵がしてありました。部屋の間取りは3Kで、3つの部屋のうち1つは入り口の横の部屋で外の廊下に面しており、残りの2つの部屋はベランダに面していました。入り口の横の部屋とベランダに面した一方の部屋の窓は、厚さ1センチ5ミリほどのベニヤ板によって塞がれ、残りの1つの部屋の窓は厚さ1センチほどのセルロイドの特殊の板がはめ込まれていました。ベニヤ板は長さ5センチぐらいのビスが約10センチおきに打ち込まれて窓枠に固定されており、しかも窓自体の鍵も固定されていて、開かないようになっていました。また、バス・トイレのドアは鍵がかからないようになっていました。さらに、部屋の中の廊下に電話器がありましたが、木の箱で覆われており、その蓋は南京錠で施錠してありました。
私は何とか脱出しようとして暴れましたが、その度に親族から殴られ、取り押さえられ、最後は手足を縛られました。手は後ろ手に回され包帯とガムテープで縛られ、その上から建築用のパイプを固定するための金属資材で縛られました。両足も同じ用に包帯、ガムテープ、金属資材で縛られました。手を後ろ手に縛られたため、肩は脱臼しそうになり、激痛が走りました。また、手足を縛った金属資材は動けば動くほどきつく閉まり、そのうち資材が皮膚に直接喰い込んできました。私がどんなに泣いて頼んでも、この日は資材などをはずして貰えず、両手は翌日まで、両足は3日間縛られ続けました。
縛られて2日目に体中に痒みが走ったため、風呂に入れてくれるよう頼みました。すると、父は両手両足を縛ったまま私を風呂に入れ、私の体を洗いました。この間、食事をするときも手足が使えなかったので、口だけで食事を食べました。 - 3-2.清水牧師の面談強要
4月12日、午後9時か10時頃、清水与志雄牧師が監禁場所に来ました。私が「来て欲しいなんて言っていない」と言うと、意外な様子でした。この日以降、清水牧師は週2回、月曜日と金曜日に監禁場所に来ましたが、私が相手にしなかったために、一方的に1時間ぐらい統一教会の批判をして帰りました。この間、5月からは清水牧師の元で脱会した女性信者数名が週2回、清水牧師と一緒に来るようになりました。 - 3-3.清水牧師の監禁指導
私は夜、両親等が寝ていた時に、何か脱出するために役に立つものはないかと思い、台所の下の物入れなどを探しました。この時、台所の下に包帯、ガムテープ、縄といった私を縛るための道具が隠されていたのを発見しました。
7月のある日の朝10時頃、私は長期の監禁に抗議したい思いを押さえきれなくなり、窓を覆っていたセルロイド板を右足で思いっきり蹴りました。するとセルロイド板がたわんで窓ガラスに当たり、直径40センチくらいに亘って円状にひびが入りました。この窓は中に金属製の網が貼りめぐらされた強化ガラスだったので、穴は開きませんでした。しかしこれを見ていた両親は激しく憤り、「割ったな。先生を呼んでやるからな!」と言って父親が清水牧師を呼びに電話をかけに行きました。私は牧師を呼ばれたら監禁がさらに長引くと思い、絶望感から床に入って横になりました。1時間ぐらいすると清水牧師がやってきて、土足のまま私が寝ていた部屋に入り込み、「コラ起きろ。何で寝てやがるんだ」と怒鳴って布団を引っ剥がしました。この時、清水牧師は体育館用運動靴を履いていました。私が暴れた場合に、私と格闘して取り押さえるためにこのような備えをしたのだと思います。この後、清水牧師は私に対して「暴れるな」などと言って20分ほどに亘って説教し、私の両親に対しては、「暴れたら何やってもいいですから。躊躇したら舐められますので」「暴れたら縛ったっていいんだよ」等とけしかけました。 - 3-4.発病
8月に私は血の混じった尿が出るようになり、しかも尿道に痛みを感じました。そこで私はトイレに溜まった血尿を親に見せ、病院に行かせて欲しいと両親に頼みました。私は体のどこが悪いのか不安だったので、早く病院に行きたいと思い、泣きながら訴えました。ところが、両親は「ちょっと待ってくれ」と言うばかりでした。2日後に清水牧師が監禁場所に来た時、私を病院に連れて行くかどうかの話し合いが両親との間でなされました。この時、清水牧師は「親戚の人数は揃っているのか?」「車は手配できたのか?」「病院は近くにあるのか?」「できれば親戚などのつながりのある病院で監視ができるところがいい」などと、私を逃がさないようにする方法のことばかり話し、私の健康状態に関する話は全くしませんでした。清水牧師が帰った後、父は「お前の健康のことは思っているが(清水牧師から)許可が下りないんだ。また言ってみるから我慢しろ」と言いました。清水牧師は、私を病院に連れていった場合、私が逃げ出すことを心配していましたが、私はこの頃には長期間の監禁で体力が落ちていたので、自力で走って逃げることはまず不可能でした。
翌日、両親と妹、清水牧師の監視付でようやく病院に行かせてもらうことができました。私自身は泌尿器科に行きたかったのですが、親戚関係に泌尿器科の医療関係者がいなかったため、泌尿器科には行かせてもらえませんでした。病院では、清水牧師が診察室にまで入ってきて私を監視しました。医師は「腎臓結石で尿管が切れたのだろう」と言いましたが、薬をくれただけで、傷口への直接の治療はしてもらえませんでした。 ある日の夜、母親と話していた時、母は「清水牧師はちょっとやり方がひどいので、人格的には余り好きになれない」と言っていました。 - 3-5.脱出の失敗
9月18日、私は両親の監視付で元信者の勉強会である「若枝の会」に連れて行かれようとしたとき、監禁場所から駐車場に行く途中で逃げ出しました。しかし、私は長期間の監禁のため速く走ることができず、父に追いつかれてしましました。父は通りがかりのブラジル人男性に助けを求め、2人で私を取り押さえました。そこに母がやってくると、父は母に「牧師を呼んでくれ」と言いました。そこに通行人から通報を受けたのかパトカーが来ました。中から男性の警官2人と婦人警官1人が出てきて、事情を聞かれました。私が拉致監禁されていた事情を話している最中、清水牧師とその婦人、それに脱会者の女性がワゴン車で来ました。警官は清水牧師とも話し始めました。警官は話をする中で、「統一教会員とその親との問題が太田でも頻繁に起こっているので、警察でも対策のため教理の本を読んでいる」と言いました。私は自分の人権が侵害されていることを警官に対して懸命に訴えましたが、警官は「お前の言うことは分かるが、親に迷惑をかけるな」と言って、私を監禁場所に戻そうとしました。私はそれまでの経験で警察が助けてくれないことを十分わかっていたので、諦めて監禁場所に帰りました。 - 3-6.脱出
11月10日頃、清水牧師は統一教会に関する批判話も尽きたらしく、「そろそろどうなんだ」と聞いてきました。私は、監禁状態が余りにも厳しく、自分の力ではもはや脱出できないものと断念していたことから、意に反して「辞めようと思っています」と力無く答えました。
11月14日午後10時頃、清水牧師が男性の脱会者と共に監禁場所に来ました。この時、清水牧師は拉致監禁活動に関して「本当はやりたくないんだ」と本音を話しました。この日の深夜、清水牧師は元信者の男性と共に監禁場所から帰りました。いつもであれば、牧師が帰った後はすぐに父親が鎖と南京錠などで玄関ドアを施錠していましたが、この時は私が既に脱会表明をした後だったからか、父親はすぐには玄関ドアの施錠をしませんでした。私は母に、私を1回目に監禁した時に両親が私に対する拉致監禁の相談をした牧師が誰なのか聞きました。すると母は「須賀」という牧師だと答えました。これは、統一教会に対する反対運動を行っている日本基督教団の須賀誠二牧師のことと思われます。
玄関ドアの鍵は相変わらず開いたままでした。そこで、私は親が見ていない隙に玄関ドアから逃げ出しました。この後、通りがかりの車やタクシーを乗り継いで、東京に帰って来ることができました。こうして7ヵ月間に亘る今回の監禁及び人権侵害からようやく解放されることが出来ました。
- 3-1.拉致監禁
以上
1999年12月9日
横浜地方裁判所第八民事部合議係 御中