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「国境なき人権」が拉致監禁問題に関するニューズレターを発行
ベルギーに本拠地を置き国連人権理事会にも強い影響力をもつ、欧州の世界的人権NGO「国境なき人権」が、2011年にフランスで実際に起きた拉致監禁・強制改宗事件の顛末を引用しながら、同様の事件に対するフランスと日本の対応について比較研究したニューズレターを全世界に向けて発行しました。
ニューズレターは、両国の警察および司法当局の対応の違いを鮮明にし、それらをICCPR (市民的および政治的権利に関する国際規約/International Covenant on Civil and Political Rights) や欧州人権裁判所 の判断に従って分析しています。
以下、全文の日本語訳を掲載いたします。
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フランスと日本における強制棄教を目的とした拉致と監禁:簡潔な比較研究
2013年8月5日
国境なき人権 (2013年8月5日) – 2011年8月下旬、24歳の女性であるマリー・トルオンはオリオール(フランス)で両親によって拉致され、コルシカ島に連れてこられた。その理由は、両親が彼女をいわゆる「カルト」から「救出」したいと思い、そのメンバーの一人と娘が結婚するのを阻止するためであった。母親のダニエレ・トルオンは執行猶予付きの2年間の禁固刑を言い渡されるとともに、精神鑑定を受けることを命じられた。彼女の夫のジャックと息子のジョセフは、ポリネシアに滞在していたため裁判中は不在であったが、執行猶予付きの1年の禁固刑を受けた。判決には、被害者とのあらゆる接触の禁止が付随されていた。
事実
当時マリー・トルオンのボーイフレンド(2012年に彼女の夫になった)だったジョゼ・アッバと彼の両親は、ファーザー・アントワーヌ(1846-1912)の崇拝者であった。彼は19世紀にベルギーで新宗教運動を創設した人物で、運動は20世紀に主にフランスで広まった。
2011年8月下旬、父親と息子はオリオール通りでマリーを待ち伏せし、彼女を腕で捕まえ、手錠をかけて車の中に無理やり押し込んで連れ去った。彼女は精神安定剤を飲むことを強要された。ニースからバスディアまでは、家族はマリーを車いすに乗せてフェリーで渡った。島に着くと、トルオン一家はコルシカのカルジェーズ市に向かった。地中海の向こう側では、彼女のボーイフレンドは彼女が家族と共に失踪したことを報告した。マリーが最終的に両親の影響下から解放され、告訴のために警察を訪れたのはアジャッチオだった。
フランスと日本:いくつかの比較の要素と国連の規範
フランスと日本における強制棄教を目的とした拉致と監禁においては、国連の法的文書によって保障されるいくつかの自由と権利が侵害されている。しかし、そうした事件の取り扱いはフランスと日本では大きく異なっている。
あらゆる宗教または信仰の自由
宗教および信仰の自由は「市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR)」の第18条によって、すべての市民に対して、いかなる信仰であろうと無信仰であろうと保障されている。国連自由権規約人権委員会は、その「総評22号」において以下のように述べている:
2.第18条では、一神教や非一神教の信仰や無神論、および特定の宗教や信念を持つこと、および持たないことの権利を保障している。「信念」や「宗教」という用語は広義に解釈されるべきだ。第18条は伝統的宗教にだけ適用されるのではなく、それらに類似した組織や実践をする宗教や信念にも適用される。そこで同委員会は宗教や信念の如何を問わず、いかなる理由、例えば創設されたばかりの宗教だとか、弱小教団でありながら有力教団にとって厄介な存在であるとか、諸事情があっても、それらを差別することに対して監視している。
フランスのケースでは、警察権力と司法はマリー・トルオンの新宗教運動を信奉する権利を擁護するために必要な対策を講じ、彼女を拉致した両親に対する刑事訴訟に取り掛かった。フランス法廷の犯人に対する判決は、その他の起こり得る拉致の試みや、棄教を目的としたいわゆる「救出活動」に対して、強力な抑止的警告を発している。
日本においては、警察権力は統一教会ならびにエホバの証人の信者の権利を擁護することに対しては、これらの新宗教運動に対する偏見のゆえに、意図的にこれを怠ってきた。彼らは両親の懸念に共感し、ときには拉致を手助けすることもあった。検察は犯人を起訴することを拒否してきたし、法廷はこうした行為を抑止するような判決を下してこなかった。よって、違法行為が何十年にもわたって継続されてきたのである。
移動の自由
マリー・トルオンの事件においては、フランスはICCPR の第12条によって保障されている、彼女の移動の自由を守った。
日本においては、さまざまな状況下で両親および親族らによって拉致され、信仰を棄てるまで所在不明の場所に監禁されていたすべての成人女性の移動の自由を、当局は保証しなかった。これらの事実はいまだに処罰を受けていない。
国連自由権規約人権委員会は、その「総評27号」において以下のように述べている:
6.締約国は、第12条によって保障されている権利が、公的干渉のみならず私的干渉からも守られていることを保証しなければならない。女性の場合には、この擁護義務はとりわけ妥当である。例えば、自由に移動し住居を選ぶ女性の権利が、法律や慣習、親戚を含む他者の決定の支配を受けるのは、第12条の第一段落と相容れない。
国連自由権規約人権委員会は、第9条(身体の自由及び安全についての権利)に関する「総評27号」において以下のように述べている:
16.第9条に関して、締約国は、女性の移動の権利を制約するあらゆる法規定ならびにあらゆる慣習に関する情報、例えば妻に対する夫の権力や、成人した女性に対する両親の権力等に関する情報を、提供しなければならない。
結婚の権利
フランスにおいては、司法当局はマリー・トルオンが自分の選んだ男性と、その信仰に関わらず同居する権利を認め、両親が彼女の選択に干渉し、彼女の愛する人と別れされることに対しては、いかなる形の合法性も認めなかった。
日本においては、統一教会に所属する成人した子供が他の統一教会信者と婚約あるいは結婚しようとするときに、多くの拉致が発生した。いくつかのケースでは、彼らは婚姻の破棄を強要されたり、実際に破棄したりした。後藤徹は統一教会の女性信者と婚約した後で拉致され、12年間以上監禁された。こうした結婚の権利に対する侵害は、いまだに処罰されていない。
国連自由権規約人権委員会は、「総評19号」において以下のように述べている:
5.家庭を持つ権利には、原則として、繁殖と同居の可能性が含まれている。
拉致された人物の失踪宣言
フランスのケースでは、情報提供者は行方不明者と結婚しておらず、当時は彼女が同居するボーイフレンドであったが、警察は彼の宣言を正当に登録し、有効とした。
日本では、同じ新宗教に属する婚約者からの捜索願を警察は意図的に無視してきた。国境なき人権に知られているあるケースでは、元木恵美子の疾走が彼女の夫であるキム・トゥシクによって宣言されたが、彼の主張は警察権力によって無視された。トゥシクが東京の韓国大使館をこの問題に巻き込んだとき、警察は監禁場所に駆けつけて拉致被害者を解放した。
より最近では、M.M.さんが2013年3月に失踪した。彼女は統一教会の信仰に反対する両親によって監禁されていたようである。彼女の婚約者であるS.O.氏は、警察に彼女の捜索と救出を依頼した。しかし、警察は彼女の両親と連絡を取っただけで、M.M.さんの意志を確認することなく、彼女の居場所を探して欲しいというS.O.氏の要請を拒絶した。4月13日に国境なき人権は警察に対し、M.M.さんの事件を最優先事項として対処するよう要請する手紙を書いた。その手紙は、警察に対して、M.M.さんの居場所を突き止めるためにあらゆる適切な手段を講じ、彼女が信仰を棄てるよう圧力を加えられることがないよう保証するために、その権限の範囲内であらゆる措置を講ずるよう要請した。しかしながら、警察はこの要請に対して反応しなかった。
法的手続き
フランスにおいては、拉致被害者は自身の権利を尊重させるために本格的な裁判に頼ることができた。マリー・ジョセフィ・ムラキオーレ裁判長は、「アントニスト運動」はフランスの基準によればカルト的ではないことを思い起こした。さらに、検察官のジュリー・コリンは拉致した母親によって演じられた「悔い改めのショー」を信用せず、彼女に対して2年間の禁固刑(したがって18ヶ月の執行猶予)を求刑した:「きょう、仮面は落なければならない。彼らはマリーに手かせをはめた。彼らは彼女を引きずり、強制的に意識混濁状態に陥れた。これは非常に深刻である。」母親が「全てを支配」することを欲していた事件をまとめて、弁護士は、その若い女性は家族から自立したかっただけであることを想起した。「この家族はまるでカルトのようです。それは愛の行為ではありません」と彼女は堂々とした態度で結論し、父親とその息子に対して18年の実刑と10ヶ月の執行猶予を求刑した。
日本においては、拉致を行った両親と宗教的所属の変更の強要に携わったディプログラマーを共に相手取ってなされた告訴は、知られている限り全て、検察官によって不起訴処分にされた。国境なき人権は、1980年から2008年の間に刑事告訴がなされた事件を24件知っている。
欧州人権裁判所
47カ国が署名・批准し、ICCPRと極めて類似した宗教及び良心の自由に関する規定を含んでいる欧州人権条約を執行する欧州人権裁判所{おうしゅう じんけん さいばんしょ}は、国家は民間主体によるそのような強制棄教のための拉致に参加しても是認してもならないと判決している。
1999年10月14日の「リエラ・ブルメほか」対「スペイン」の判決において、欧州人権裁判所は、拉致と「ディプログラミング」が両親と反セクト組織「プロ・フベントゥス」によってなされたにもかかわらず、スペイン国家がヨーロッパ人権条約に違反したことを認めた。
さらにまた、欧州人権裁判所は宗教の自由に対する権利は、個人の宗教的選択に対して親族からいかなる敵意が表明されたとしても、それに関わらず保護されなければならない、と判決している。
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[i] アントニズムは1910年にベルギーでルイ・ジョセフ・アントワーヌ(1846-1912)によって創設された、癒しを伴うキリスト教系の宗教運動である。世界中に64の寺院と40以上の読書室と数千名の信者を持つ。ベルギーで設立され、その悪評と成功が国外に波及した唯一の宗教として残っている。主にフランスで活発なこの宗教運動は、分権的な構造、シンプルな儀式、他の信仰に対する慎重さと寛容を特徴としている。
カトリックとして育てられたアントワーヌは、若い頃は炭坑作業員として、そして後には製鉄工として働いた。アラン・カーデックの著作に深い影響を受け、彼は1890年代に降霊術者のグループを組織した。1893年に彼の息子が死んだことにより、彼はカトリックに対する信仰を最終的に失った。1896年に、彼は自身の降霊術師として見解を本に著し、続いて癒しの賜物を見出した。瞬く間に神霊治療家として有名になり、彼はカトリックや医学に失望していた労働者の中に多くの多くの信奉者を集めた。1906年に彼は降霊術と決別して宗教を創設し、彼の教義を概説した3つの著書を出版し、最初のアントニスト寺院を献堂した。1912年に彼が亡くなると、彼の妻は、夫の人格を中心とした中央集権的な研修会を促進し、組織のルールを追加することによって、宗教の存続を保証した。1940年に彼女が死ぬと、フランスとベルギーの寺院の間ではいくつかの違いが生じるようになった。
[ii] 日本における事件の詳細に関しては、国境なき人権の報告書「日本:棄教を目的とした拉致と拘束 」を参照のこと。
[iii] 欧州人権裁判所は、2010年6月10日に下された「モスクワのエホバの証人」対「ロシア」の重要な判決において、自身の選択した方法で生活する権利、そして特に宗教的事柄に関する自己決定権を再び明確にした。
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