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“拉致監禁”の連鎖 パートⅧ 番外編 宗教ジャーナリスト 室生忠さんに聞く(上)
宗教ジャーナリスト 室生忠さんに聞く(上)
「国境なき人権」報告書で波紋
「“拉致監禁”の連鎖 パートⅧ 続・世界からの指弾」では、「国境なき人権」の報告書と国連人権理事会、米国など内外の1年間の動きをまとめた。海外の動向について精力的に執筆する宗教ジャーナリストの室生忠氏にパートⅧについての感想などを聞いた。
(聞き手=森田清策、片上晴彦 写真=岩城喜之)
国際的に太い柱が立つ/「日本の宗教事情」は疑問
霊世界重視の新々宗教/成人を子供扱いは不当
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――今回は日本における強制棄教・改宗のための拉致監禁に対する国際的な動きについてのリポートだった。
国外、国際的な動きについては去年3月にリポートしたパートⅤの続編ということだろう。パートⅤは国際的な動きの種まきのリポートで、今回のパートは種まきから、かなり太い柱が1本、2本と、できつつあるという内容だ。
――ありがとうございます。
ただ残念だなと思うことが1点ある。国連人権理事会については、サイドイベントのリポートが1回きりで「普遍的定期レビュー(UPR)」の内容がネグレクトされている。レビューそのものの細かい分析がなされていない。
レビューは、日本そのものの自己診断や自己評価、国連人権高等弁務官事務所による資料の採用、国連加盟国における質問、批判という三つの構成要素で成立している。今回のレビューで、日本の自己評価が高いのは当たり前で、拉致監禁問題に触れるわけがない。二つ目の国連人権弁務官事務所が「国境なき人権」リポートを採用したことの位置づけをしっかり強調すべきだった。
――確かに、連載ではレビューについては言及しなかった。
国連を支える様々なセクション、スタッフたちが、この人権リポートを極めて重要視し、世界の国連加盟国に資料として提示し討議に値するものという価値判断をした。そのことが非常に重要だ。
さらに言うならば、これだけの国際的な人権疑惑が提起されたのに、なぜレビューで国連加盟国から日本に対する批判が出なかったのか。現地の情報を取りながら、そこまで書いてほしかった。
――舞台裏のすさまじいロビー活動の追跡ですね。
常識として、国連はすべてがロビー外交だ。今回の場合、当然、国境なき人権のフォートレ氏や人権活動家のアーロン・ローズ氏が中心となって活発なロビー活動がなされたはずだ。彼らがサイドイベントで、あれだけ情熱を込めて訴えたのだから。
当然、それを阻止するため、日本側も活発なロビー活動をしたはずだ。日本国内で拉致監禁があるのでは、という批判があの場で一つでも出れば、日本の権威は失墜するからだ。
――報告書の第1章「日本の宗教事情の概観」は、英国マンチェスター大学のイアン・リーダー教授の手になるものだが、どう感じたか。
日本にだいぶ長くおられ、日本の宗教界に詳しいと聞くが、宗教界の区分けや認識について、私とはかなり懸け離れた部分がある。ただし、あのリポートの質が劣るということではない。それはまた別問題だ。
彼は日本の伝統文化や村社会文化ということに非常にこだわるというか、そこに引っ張られている。これは外国人に特有のことで、日本における宗教状況を考える場合、その根っこに非常に封建的な、村社会的な構造や思想、前近代的なものが残っており、その残滓からいろいろな問題が生まれるんだという発想になりがちだ。しかし今、日本においては一部を除いて、古典的な村社会文化というものはほぼ消滅している。
――なるほど。
リーダー氏は「新興宗教」という言葉を使っているが、新宗教と既成宗教との区分けは私の考えとも違う。日本の宗教学者がとらえる既成宗教は江戸時代までに生まれた宗教を言い、新宗教というのは、幕末期から広く戦前まで、あるいは終戦までに生まれた宗教をいう。その場合に新宗教を前期と後期に分けて、大本から始まり天理などが前期新宗教、後期新宗教には霊友会、立正佼成会、創価学会などが入ってくるが、リーダー氏の言う「挑戦的な教団」はその中にはない。その分派亜流にも存在しない。
それに当たるのは、私が主張する、戦後に生まれてきた「新々宗教」とか「ニューエイジ」「ムーブメント」などと呼ばれる宗教的マイノリティー(少数派)群で、統一教会もそうだ。そこのところの区分けに目が届いていない。
宗教というのは常に現体制と現実の価値観、社会的政治的な価値観を含めて、そのアンチテーゼ、“世直し運動”として出てくる。ところが二代、三代を経て、その教団がある程度の勢力となり安定化が図られるにつれて、常に体制内化の道を歩む。
それに対して新々宗教とかニューエイジは、現実社会の価値観とは別の価値観というか、それを超える価値観というものを非常に色濃く保っている。つまり既成化していない。多くの場合、その中心となるのは霊世界の実感認識で、霊的な、あるいはスピリチュアルな世界観を非常に重視する。それはすべての新宗教が原初は非常に色濃く持っていたが、既に捨て去ってしまっている部分だ。
――その点が誤解もされ社会的な問題として取り上げられている?
新々宗教的な世界観、価値観、世直し観に対し、戦後憲法遵守の建前上、信教の自由を守らなければならないと、嫌々ながらも応じていた勢力が、オウム事件を機に一挙に噴出してきたということだ。また統一教会に対しては左翼勢力の政治思想も絡んでいる。そういう勢力が、そのすべてを「カルト」とくくって撲滅しようと乗り出してきた。オウム事件の影響があまりに強かったためにメディアも乗ってくる。
また政府や官僚組織は国家を超える指導者とか、理念、感性、そういうもので運営される組織の存在を「国家内国家」としてもともと嫌い、認めたくない。それで国家も“絶好のチャンス”として利用しにかかる。
具体的には、例えば「親子の問題」もそうだ。親子の問題というのは村社会文化から出ているものではなくて、いわゆる「カルト」的なものをつぶすために出てきた、親の心情を利用した方便だと私は考えている。そういった意味で言うとリーダー氏の分析は、やはりちょっとずれているなと感じる。
――日本に対する固定観念があると思う。
日本においては、親子の関係というメンタリティー、文化そのものは崩れてきている。特に都市部では実質的に消滅していると言っていい。それが現状だ。
親子関係という理念が実体を伴って社会で機能していて、そのためメディア、裁判、検察、警察の世界でも、その社会理念に沿うように処理をされているということではない。親子関係の重視が日本国家の当為理念のひとつであることは事実だが、現況はむしろ「カルト」をつぶすため、つぶす行動を援護するため、補完するための理屈付けの一つの材料として、「親子の問題なんだ」という論理、言葉が出てきている。
フォートレ氏が「子供という言い方をやめて、単なる成人なんだということを前提とした物の言い方を主張すべきだ」と言っているのは当たっている。
-(下)につづく-