新着情報
“拉致監禁”の連鎖(184)PTSD発症(12) 「人生最大の汚点」と母親
「人生最大の汚点」と母親
2009年11月2日の日記。塩谷知子さんの不安定な精神状況が綴られている
塩谷知子さんの2009(平成21)年11月2日の日記に、こんな記述がある。 「かんきんのときに表に出せなかった感情が今ごろ、フツフツとわいてくる。泣きたかった悲しい思い。1人になると悲しみがおそってきて泣きたくなる。頭がつかれて、夜はすごくイライラする。子供や、夫にあたり、良くない。どうしたらいいんだろう――。」(原文のまま)
この年の2月、拉致監禁による強制棄教の根絶を目指す市民団体「拉致監禁をなくす会」の設立総会が東京で行われ、そこに知子さんの姿があった。「他の誰にも自分達と同じ体験はしてほしくない」という強い思いから、拉致監禁をなくす運動に加わったのだ。しかし、同じような過酷な体験をした犠牲者らと交流する中で、被害の記憶が整理される一方、自らの意志とは別に、覚醒亢進(異常な精神的緊張の高まり)やフラッシュバックなどの症状が出るというジレンマに陥った。
そのころに受診して、拉致監禁の被害体験を打ち明けた心療内科の医師からは「PTSDの症状」と診断された。そして「一番の問題は親子関係に傷が入ったこと。親子関係の修復を図ろうとして、押し殺してきた感情が活動をすることで噴出している状態」ということで、運動参加に一時ドクターストップがかかった。
その一方で、親子関係の修復は進む。拉致監禁から脱出してから3年後、亀裂の入った親子の交流を再び始めようとした時、知子さんは「お母さんのやったこと(拉致監禁)は親の愛情から出たことだから、私は忘れようと思う」と、電話で心情を吐露していた。母親は、このとき「済まなかった」と泣いて謝ったという。
だが、うつになってから「忘れたのではなく、記憶を封じ込めただけだったのだ」と気付いた。おぞましい体験の記憶を封印しなければ、拉致監禁のトラウマで、両親との交流は難しかったのだ。
娘には謝罪した母親だったが、夫にも謝ってほしいと思っていた知子さんは自身がうつになって、夫の苦しみが理解できるようになり、ある決心をする。「母に会いに行くことにしました。そして、拉致監禁の後、私たち夫婦に何があったのか、どんなに辛かったかを話したのです」。
かつて受けた監禁の苦しみを聞いた母親は「あれは牧師のやり過ぎで、私の人生の最大の汚点だ」と過ちを認めながら、「私も苦しんだ」と打ち明けたという。
しかし、「でも、夫も傷つき、苦しんだのだから、夫に謝ってほしい」と求める知子さんに、母親は「そんなことはできない」と謝罪を拒んだ。
そこで、「ここに私のことが載っているから」と話し、自身が仮名で登場する米本和広さんの著書『我らの不快な隣人』を手渡した。
その日の夜、母親から届いたメールには「(本は)読む気になれない。親と思っていないのだったら、それでもいい」とあった。気落ちした知子さんに次の日にまたメールがあった。
「本を読んで、涙が止まらなかった。2人にはどんな大変なことだったかと思うと、申し訳ない。Aさん(知子さんの夫)には『申し訳なかった』と伝えてください」
知子さんは夫に母親の謝罪を伝えた。「夫は非常に驚いた様子だった。『自分を理解してくれた』という思いが夫にあったようで、そこから恨み事を言わなくなった」。
1993年の拉致監禁被害から16年の歳月が流れていた。
(「宗教の自由」取材班)