新着情報
“拉致監禁”の連鎖(183)PTSD発症(11) 夫と入れ替わりうつに
夫と入れ替わりうつに
塩谷知子さんが69日間監禁されたマンション(京都市右京区)
拉致監禁被害者、塩谷知子さんの夫は婚約者(当時)を連れ去った知子さんの両親を強く恨み、そのやり場のない怒りを妻にぶっつけた。しかし、その精神的な不調は2002(平成14)年には少し落ち着きを見せた。3番目の子供が生まれた04年頃には仕事に就き、それは今も続いている。
「子供が心の癒やしになったのでしょうね」と知子さん。精神疾患に悩む人が子供に支えられたという声を聞くことは少なくない。妻の拉致監禁の後遺症で双極性障害に苦しむ今利智也さんは妻、理絵さんとの間に4人の子供を授かり、「子供たちに囲まれて、私の症状は落ち着いてきた」と語った。知子さんの分析は的を射ているだろう。
だが、塩谷さん夫妻の場合、夫と入れ替わるように妻がうつ病を発症した。06年のことだった。「私も深く悩み込んでいたので、うつになったのだと思う。でも、当初は拉致監禁と関係があるとは思っていなかった」。
心が処理できないほどの過酷な体験をした場合、それが強い心理的ショックとなって心身の不調を引き起こすのは、正常な反応と見るべきである。通常、その不調は自然に回復するケースが多いが、原因が分からずに自らを責めたり、配偶者を責めたりして、症状を悪化させたり、回復を遅らせることもある。
抗うつ剤の服用を一年ほど続けた。しかし、仕事に行った翌日は寝込むというパターンの繰り返しで、フルタイムで働けるようになるまでに3年余りを必要とした。
知子さんには、うつになったことで蘇った記憶があった。「拉致監禁を思い出したのです。真っ暗で出口のないトンネルに入ってしまったような感覚。『これ、どこかで味わった感覚だな。どこで味わったんだろう?』と思ったら、拉致監禁だった」
親子関係を修復するために、それまで10年以上も封印してきた被害の記憶が蘇ってきたのだ。
「私は長い間、十分に主人の痛みを理解することができず、私を責める主人を責め続けました。しかし、自分がうつ病になり、その苦しみと、監禁された時の苦しみが重なって、主人の気持ちをもう一度考えさせられた」
知子さんの心の痛みが伝わる言葉である。
夫の精神的苦痛を理解し始めた知子さんは07年夏、その原因が自分の拉致被害の後遺症だと気付くきっかけをつくった出会いをする。翌年に、「統一教会から『救出』されたある女性信者の悲劇」との副題を付けた著書『我らの不快な隣人』を出版したルポライター米本和広さんから取材を受けたことだ。
この本の中に「藤田礼子」の仮名で登場するのが知子さんだ。
取材の過程で、知子さんは交通事故の目撃者にもPTSD発症が認定され、事故の加害者が慰謝料を支払うという判決があることを知った。このため、PTSDは当事者でなくとも、衝撃的な体験をした人なら発症する可能性があることが理解できたのだ。
夫に精神的な不調が表れ出したのは拉致被害から3年後。第一子を妊娠したのを契機に、両親との関係回復を願って交流を始めたころだった。
結局、その原因は、両親と会うことが妻の拉致監禁被害、そして入籍していたにもかかわらず自身の存在が無視された屈辱と苦痛の記憶を呼び起こすからだったのだろう。
知子さんは「あれが原因だったのだ、と腑に落ちた」という。
(「宗教の自由」取材班)