有識者の声
後藤徹氏に対する拉致監禁事件についての意見書(室生忠)
<全体の要約>
統一教会の信者を主なターゲットとするディプログラミング(拉致監禁による強制改宗)は、明らかな犯罪であるにもかかわらず、それがいまだに根絶されないのは、その実行者によって主張されている、これが「親子の問題」であり、「保護説得」であるという“まやかし”が社会によって容認されているからである。
そのような“まやかし”が容認される第一の原因は、マスメディアの偏向体質にある。メディアはこうした事件の存在を知りつつも、「統一教会は社会的に問題の多い団体である」という理由で、これまで一切報道してこなかった。本来、ある教団が抱える社会的問題と、その信者を拉致監禁して強制的に棄教させることは、まったく別次元の問題であるにもかかわらず、現在のマスメディアは、その両者を峻別することなく一緒クタにして、ディプログラミング頻発の事実から目をそらしているのである。
こうしたマスメディアの偏向と独善によって、「統一教会=悪、統一教会に反対するすべての行為=善」という短絡的な構図が作りあげられ、いまでは統一教会を取り巻く社会全体の雰囲気が、冷静な「是々非々」の議論や「弁証法的対話」を不可能にする、異常な嫌悪と偏見に包まれてしまっている。
さらに憂慮すべきは、マスメディアの偏向とそれに影響を受けた社会の空気が、拉致監禁の被害者にとって“頼み綱”であるはずの警察、検察の取り締まり当局、さらには司法の判断にまで少なからず影響を与えていることだ。刑法に触れる犯罪行為がなされたにもかかわらず、被害者からの告訴状を受けた日本の警察は、拉致監禁事件の犯人を逮捕、立件したがらない。事実、現在まで相当な数の告訴状が警察に提出されているにもかかわらず、逮捕された加害者は一人として存在しない。検察の偏向的な風潮はさらに露骨で、たとえ書類送検されても、これまでただの一件も起訴されていないのである。
統一教会またはその信者が加害者として扱われる事件においては、極めて厳しく法が適用される反面、被害者として扱われる時には、“反社会団体だからそのように扱われても仕方がない”との理由で、拉致監禁の違法行為について見て見ぬふりをする。マスメディアによって醸成された、こうした「ダブルスタンダード」は警察、検察のみならず司法界にも蔓延している。これは統一教会という一宗教団体に限定された問題ではない。民主主義社会における信教の自由の確立という、より根源的、普遍的な命題を含んでいる。日本が民主主義国家、法治国家として成熟するためにも、国家主権の恣意的な判断や思惑によって、拉致監禁事件の責任の所在がもみ消されることを防がなければならない。
<本文>
1.ディプログラミングの悲惨な被害
現在、日本社会に横行しているディプログラミング(拉致監禁による強制棄教)が、多くの被害者にもたらす後遺症、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の被害は極めて深刻である。PTSDは、ディプログラミングを受けて、特定宗教団体から脱会した元信者にも起きている。21年前に1カ月間の監禁後に統一教会を脱会した元信者の女性は、拉致監禁を連想させる事柄に接すると、21年経った今なお激しい動悸に襲われるという。
自分が経験した拉致・監禁の状態を思い出した瞬間、怒りがこみ上げてきて、形相が一変する。苦しみがフラッシュバックとなってよみがえり、解けない恨みと苦悩が心をさいなむ。重度の鬱状態に落ち込んで、仕事を失い、家庭を失い、社会生活を営む基盤を失うケースも決して稀ではない。
自殺や自殺未遂も多発している。1997年7月、ディプログラミングから自分の信仰を守るために、統一教会の女性信仰者(当時27歳)が、京都市内の監禁部屋のトイレで首を吊って死亡した。1996年5月から8月まで立川市内のマンションに監禁された女性信仰者(当時・26歳)は、3度にわたってカッターナイフで手首を切ろうと試みた、と裁判で証言している。
もちろん、後遺症や自殺、自殺未遂の多発だけが問題なのではない。そもそも成人を路上その他で、本人の抵抗を物理的に排除して無理やり拉致する行為。加工した特殊な錠前で幾重にも頑丈に施錠した部屋に長期間監禁する行為。被害者を物理的に逃げられない状態下において、本人の意思に反して、激しい怒号を交えて執拗に特定教団からの棄教を迫り続ける行為。そのディプログラミングの形態そのものに、強度の違法性、犯罪性が明らかなのだ。ディプログラミングは明らかに犯罪である。
1970〜80年代の米国においても、多数のプロのディプログラマーによるディプログラミングが頻発した。しかし、米国の裁判所は、ディプログラミングは信仰の自由と身体の自由権を侵害する違法行為であると認定して、米政府の強力な取り締まりの結果、現在では完全に撲滅されている。欧州においても、ディプログラミングは早い速度で撲滅され、1980年代にはほぼ終息している。
2.深刻化する統一教会信者の拉致監禁
しかし、先進民主主義国家を自認する日本において、この非道なディプログラミングが、根絶されるどころか、依然として大手をふって横行し続けている。
日本におけるディプログラミングは、1960年代後半から始まり、世界基督教統一神霊協会(統一教会)やエホバの証人の信者が主な標的にされてきた。エホバの証人の信者に対するそれは、被害者が起こした、家族らに監禁を指導した牧師に対する民事訴訟において、厳しい違法判決が出たため、現在は表向き終息している。
深刻なのは、統一教会の信者に対するディプログラミングである。教団によれば、1996年から現在までに約4300件の拉致監禁被害が発生し、そのうち1300人以上の信者が、かろうじて監禁からの脱出に成功したという。
3.「保護説得」を主張するディプログラマー
統一教会信者に対するディプログラミングは、両親や兄弟・姉妹などの血縁者、彼らを指導するキリスト教プロテスタント派の特定牧師、プロの強制改宗屋らが実行犯になり、反統一教会の学者、ジャーナリスト、弁護士らが側面から支援するという構造ができあがっている。
ディプログラマーたちは「親子の問題」を主張して、「拉致」ではなく、霊感商法を行う反社会的団体である統一教会にマインドコントロールされた子供を救うための「保護」であると主張する。さらに、親も一緒に寝泊まりする生活だから「監禁」ではなく、統一教会の影響を排した環境で行う「親子の対話・説得」である主張している。
私は、宗教ジャーナリストとして、民主主義社会においては、特定教団の信者になるように薦める、布教伝導の自由は当然に認められるべきだと考える。同時に、その反対に特定教団から離れることを薦める、棄教説得の自由も認められるべきだと考える。
しかし、いずれの場合も対象者を拉致したうえ、監禁状態に置いて、本人の意思に反して行われる強制布教や強制棄教は、絶対に認められない。「保護」と言い換えようが「説得」と言い繕うが、その実態は明らかに「拉致」であり「監禁」であると断じざるをえない。
とくに日本のディプログラミングは、警察の介入に備えて、一家団欒を装うために事前にトランプ一式を用意しておくなど、工作が綿密できわめて悪質である点に特徴がある。
米国のディプログラミングにおいても、親もモーテルなどの監禁場所に被害者と一緒に寝泊まりして、したがってディプログラミングではないとの主張がなされた。しかし、米国の警察司法当局は、ディプログラミングの要件は親が一緒か否かではなく、本人が自由にその場から立ち去ることが可能か否かだとして、親に監禁罪を適用、逮捕している。
4.拉致監禁を容認するマスメディア
では、日本社会ではなぜ、こうした“まやかし”ともいえる言葉の置き換えが通用して、ディプログラミングが根絶されないのか。それは社会が“まやかし”を“まやかし”と認識しつつ、それを容認しているからである。
第一の原因は“第4の権力”にまで肥大した、マスメディアの偏向体質にある。私は、統一教会信者に対するディプログラミングの現状について、月刊雑誌『創』(2000年3〜8月号)で『知られざる「強制改宗」をめぐる攻防』と題した連載と、同・11月号の補稿、計7回の執筆を行った。
その取材の過程で、ディプログマーとして知られる宮村峻という人物に「ディプログラミングが社会問題化している」と指摘して取材を申し込んだところ(取材拒否)、宮村氏は平然として「テレビや新聞はとりあげていない」と応じた。
マスメディアが偏向報道を行っていることは明らかで、1960年代後半から始まったディプログラミングの実態について、大手マスメディアが“非は非”として批判的に報道した例は、私の知るかぎり、高木正久・朝日新聞編集員(当時)が執筆した「信仰切れずに鎖が切れた」(「朝日新聞」84年5月14日号)と題する特集記事のみである。それ以外は、12年5カ月以上にわたって監禁された後藤徹氏のケースをはじめ、一切の拉致監禁事件を黙殺して現在にいたっている。
1999年10月に鳥取地裁民事部で、1997年6月に牧師に指導された両親らが20名ほどの徒党を組み、スタン・ガン、鉄製の鎖、鉄パイプなどで武装したうえ、白昼堂々と統一教会鳥取教会を襲撃して女性信者(当時・31歳)を拉致した事件に、違法判決がおりた。私はその裁判を取材したが、判決当日、法廷には数社の新聞記者が取材に来ており、その後に統一教会側が開いた記者会見にも出席していた。しかし、日本という法治民主主義社会で起きた、この希有の暴力事件の判決を報じた一般メディアは、ついに一社もなかったのである。
5.統一教会の問題性と拉致監禁を峻別できないマスメディア
マスメディアがディプログラミング犯罪に目をつぶり続けている理由について、マスメディア関係者は異口同音に、「統一教会は信者に違法な霊感商法を行わせている、反社会的カルトだ。『保護説得』は基本的に『親子の問題』であって、信者の両親家族が、違法カルト組織から子供を脱会させるために行動するのは当然だ」(「朝日新聞」社会部記者)と、ディプログラマーたちの言葉をおうむ返しするように主張する。
しかしながら、ディプログラミング犯罪は、あくまで信教の自由の問題である。いかに統一教会が信者による違法性のある物品販売を理由に社会的あり方を問われ、裁判でも違法判決が出ているからといって、そのことと、信者を拉致監禁して強制的に棄教させようとするのは、まったく別次元の問題だ。
私は前記連載のなかで『創』2000年6月号にこう書いた。
〈現在の宗教団体がニューエイジが、ジャンルを問わず、組織の在り方や活動に、さまざまな矛盾を抱えているのは事実である。布施・献金の集め方、社会からの内閉化などの諸問題について、真摯な反省が必要であることは否定できない〉
〈しかし、だからといって、殺人や傷害など本人の具体的な犯罪への関与が目前に迫っている場合ならともかく、成人の信者に物理的強制を加えて拘束し、「救出」という名の棄教を迫るのは、親であれ夫であれ、ましてや牧師に許される行為ではない。それは恣意的な“私法”の執行であり、法治秩序の破壊である〉
現在のマスメディアは、その両者を峻別することなく一緒クタにして、絶対にあってはならないディプログラミング頻発の事実から目をそらして、結果として黙認から容認、さらには支持の効果まで発揮していると批判せざるをえない。
このマスメディアの価値判断の誤りが、前述したとおり、宮村峻氏のようなディプログラマーに「テレビや新聞はとりあげていない」と平然と抗弁する開き直しを許して、ディプログラミング犯罪を根絶するための大きな障害になっている。
現在の情報化社会にあって、マスメディアの動向は、世論喚起や“社会的な空気”の醸成にきわめて強い影響力をもっている。その偏向と独善によって、「統一教会=悪、統一教会に反対するすべての行為=善」という短絡的な構図が作りあげられ、いまでは統一教会を取り巻く社会全体の雰囲気が、冷静な「是々非々」の議論や「弁証法的対話」を不可能にする、極度に異常な嫌悪と偏見に包まれてしまっていることに気づくべきだろう。
6.拉致監禁に手を貸す警察
憂慮すべきは、マスメディアの偏向とそれに影響を受けた社会の空気が、拉致監禁の被害者にとって“頼み綱”であるはずの警察、検察の取り締まり当局、さらには司法の判断にまで少なからず影響を与えていることだ。
日本国憲法の第20条はすべての日本国民に信教の自由を保障しており、刑法220条によって不当監禁は犯罪とされている。
前記の統一教会鳥取教会襲撃事件の被害者女性が起こした民事裁判が進行しているさなか、2000年4月24日の衆院決算行政監視委員会において、この問題をとりあげた桧田仁・自民党代議士(当時)の質問に対して、田中節夫・警察庁長官(当時)は「親子親族といえども法のもとに平等であって、(警察は)何人に対しても厳正に対処する」「ある目的のために刑罰法令に触れる行為をすることは、法治国家においては許されない。そのようなことがあれば、警察は法と証拠に照らし対処しており、今後とも(対処)していく所存だ」と答弁した。
しかし、実態はまったく異なる。統一教会鳥取教会事件で、教会職員が鳥取警察署に刑事告訴状を提出しようとしたとき、応対に出た警察官は「俺たちは忙しいんだ。そんなものを持ってくるな」と受け取りを拒否。その結果、捜査が行われないまま、被害者の女性は約15カ月間にもわたって苛酷な監禁を強いられたのである。
また、1992年11月に東京・上野のマンションに監禁されていた男性信者は、来訪した警視庁の警察官に監禁を訴えたにもかかわらず「刑事部長と名乗る男が私の方に向かってきて、『統一教会の問題は親子の問題なのだから騒がせるな。親に心配かけるな』と言って引き上げていきました」と陳述している。
こうした例は枚挙に暇なく、1998年11月に都内のマンションに監禁された女性信者のごときは、自力脱出して110番通報によって救出要請したにもかかわらず、あろうことか、反対に東京都深川警察署で不当逮捕された。さらに警察署の公用車に監禁され、高速道路入り口まで連行されたあげくに、監禁者の両親らに引き渡されてしまっている。
私の知るかぎり、警察官が両親らによる監禁行為を中止させた例は、1998年8月、エホバの証人の女性信者が兵庫県内で監禁された事件で、通報で駆けつけた警察官が父親に女性信者を解放させ、兵庫県佐用警察署で行われた事情聴取でも、担当警察官が「お父さん、嫌がるのを無理やり連れてくるのは、親子であっても立派な犯罪です」と諭したという一件のみである。
もっとも、このエホバの証人の女性信者は、それから1年後、あろうことか、富山県高岡駅前の警察交番の前で再び拉致された。一緒にいた職場の友人は「拉致現場の目の前の交番には、警察官がいて一部始終を目撃していましたが、腕を組んで立っているだけで助けようともしませんでした」と陳述している。統一教会信者の拉致事件についても、加害者の両親らが事前に警察署に“保護計画書”を提出して、当局の黙認を得たと疑われるケースが数件報告されている。
7.拉致監禁犯の逮捕者数はゼロ
黙認とはすなわち、捜査しないということである。鳥取教会事件で警察官がとった対応を見てもわかるとおり、刑法に触れる犯罪行為がなされたにもかかわらず、被害者からの告訴状を受けた日本の警察は、拉致監禁事件の犯人を逮捕、立件したがらない。事実、現在まで相当な数の告訴状が警察に提出されているにもかかわらず、逮捕された加害者は一人として存在しない。鳥取教会事件でいえば、鳥取警察署が被害者女性からの告訴状を受理し、関係者から急遽事情聴取を始めたのは、国会における桧田議員の質問の直後からだったが、やはり逮捕者はゼロに終わった。
また、12年5カ月以上にわたる監禁をうけた統一教会信者、後藤徹氏のケースでも、所轄の荻窪警察署は家族、民間ディプログラマー、牧師らに対する刑事告訴(逮捕・監禁罪、逮捕・監禁致傷罪、強要未遂罪などの容疑)をうけながら、逮捕者はゼロだった。
警察の捜査の結果、検察庁に書類送検されるまでに至った例も極めて稀である。これが、警察庁長官が国会の質疑で「親子親族といえども法のもとに平等であって、(警察は)何人に対しても厳正に対処する」と明言した、日本警察の真の姿なのかと呆れるばかりだ。
8.検察庁による起訴もゼロ
検察の偏向的な風潮はさらに露骨だ。鳥取警察署から鳥取地検に書類送検された、被害者の父親ら実行犯5人の逮捕を求める統一教会側の弁護士に対して、鳥取地検の担当検事は「こんな者(被害者女性の家族)は絶対に逮捕しない」と言い切っている。
しかも、容疑者らが犯行を認めているにもかかわらず鳥取地検の処理は何年たっても遅々として進まず、問題が国会で取り上げられた直後から急進した結果は、実行犯5人の不起訴(起訴猶予)処分だった。検察段階で犯行の違法性は認められたとはいえ、その経緯といい、不起訴という処分内容といい、鳥取地検の事件の扱いの公平性には、多大の疑問を感じざるをえない。
前記の12年5カ月以上にもわたる監禁をうけた後藤徹氏のケースでも、荻窪警察署の捜査は遅々として進まず、2009年2月になってようやく東京地検に書類送検されたが、東京地検の出した結論は、これもまた不起訴処分(嫌疑不十分)で、監禁実行者らの違法性すら認めなかった。
相当な数の刑事告訴による逮捕者件数はゼロ。辛うじてなされた書類送検において、検察による起訴件数もゼロ。これが日本におけるディプログラミング犯罪に対処する警察、検察の真の姿である。
9.裁判所の「ダブルスタンダード」
統一教会またはその信者が加害者として扱われる事件においては、極めて厳しく法が適用される反面、被害者として扱われる時には、“反社会団体だからそのように扱われても仕方がない”との理由で、拉致監禁の違法行為について見て見ぬふりをする。マスメディアによって醸成された、こうした「ダブルスタンダード」は警察、検察のみならず司法界にも蔓延している。
私は、その好例を自ら体験した。月刊雑誌『創』に執筆した前記連載は、2000年8月、記述の4カ所が名誉棄損にあたるとして、浅見定雄・元東北学院大教授から民事提訴された。2003年6月に上告が棄却されて私の敗訴が確定したが、私は、この裁判もまた「ダブルスタンダード」による“まず結論ありき”の政治的裁判だったと考えている。
裁判所の示した判断は、まさに驚くべきものであった。例えば、公益性については「室生の本件連載は、統一協会等の信者に対する親族等による行き過ぎた改宗を迫る行為が社会的にも問題となっている状況の中で、社会に対し、自己の見解を示し、改宗を迫る行為の行き過ぎに警鐘を鳴らすという目的でなされたものであり、その目的自体には真摯な姿勢が認められる」(東京地裁・高田健一裁判長)と正面から認めておきながら、東京高裁の相良朋紀裁判長は「統一協会等の信者とその家族との間の脱会をめぐる対立関係は、信仰という人間の本質にかかわる深刻な問題を含み、事柄の性質上各種の意見や立場の違いがあることが当然に予測されるであるから、とりわけ慎重な姿勢が要求されるはずである」と述べて、その「慎重な姿勢」を欠いたとして私の敗訴を言い渡した。
しかしながら、問われているのは、親兄弟などの親族、牧師、ディプログラマーらが統一教会信者を拉致監禁して、本人の意思に反して棄教を強要する行為が、犯罪であるか否かである。その判断は純粋に犯行の構成要件によってなされるべきで、“事柄の性質上予測される各種の意見や立場の違い”など曖昧な斟酌は一切関係しないし、また、関係させてはならない。
「統一協会等の信者とその家族との間の脱会をめぐる対立関係は、信仰という人間の本質にかかわる深刻な問題を含(んでいる)」という言質は、信仰の自由を保障する日本国憲法に照らして、責任ある司法判断を回避するための逃げ口上にすぎない。そもそも、相良朋紀裁判長は、その「人間の本質にかかわる深刻な問題」なるものの具体的な中身すら明示していないのだ。
この裁判長ははたして、統一教会以外の宗教団体信者の拉致監禁事件についても、同様の見解を示すのだろうか。「統一協会等の信者とその家族との間の脱会をめぐる対立関係は、信仰という人間の本質にかかわる深刻な問題を含み、事柄の性質上各種の意見や立場の違いがある」という曖昧模糊とした“言い訳”そのものが、統一教会信者にかかわる事件について厳に存在する、日本司法界における「ダブルスタンダード」を証明している。
これは統一教会という一宗教団体についての問題ではない。マイノリティーの権利擁護という要素もさることながら、民主主義社会における信教の自由の確立という、より根源的、普遍的な命題を含んでいる。日本が民主主義国家、法治国家として成熟するためにも、国家主権の恣意的な判断や思惑によって、拉致監禁事件の責任の所在がもみ消されることを防がなければならない。そして、真の民意によって公正に扱われることこそが現在、切実に望まれる。
宗教ジャーナリスト 室生忠