Q&A
Q
「真理は不変である。ところが、『原理講論』は削除や付加、書き替えをして、変化している。このようなものが、真理であるはずがない」という反対派の批判を聞きました。どのように考えたら良いのでしょうか?
A
反対牧師は、『原理講論』に対し、「韓国語の原典にはあるのに、日本語訳で削除した部分があり、改訂版では修正した所もある。真理は永遠不変なのに、変更すること自体、『原理講論』が真理ではない証拠である」と批判します。
確かに、一時期『原理講論』にカットされた個所があったのは事実です。しかし、それは宣教上の配慮からであり、また、再臨論には、類似した聖句引用個所があったため、いわゆる「目飛び現象」(注:同じページに、同じ聖句が引用されていたため、同じ聖句と聖句の間の文章が翻訳されていなかった)による欠落部分がありました。
さらに、翻訳の未熟さから引き起こされた問題も含まれています。例えば、日本語版『原理講論』23ページで、韓国語版では「一つの目的」とあるのが「神の目的」に誤訳される、といったようにです。
実は、類似した問題が、新約聖書の成立過程にもありました。ゆえに、それをもって統一教会が不誠実であり、『原理講論』が真理ではないと言うなら、キリスト教も不誠実な宗教であり、新約聖書は真理ではないとの批判が、同様に成り立つことでしょう。
実際、キリスト教の正典である「新約聖書」の編纂過程を調べると、『原理講論』と同じ事情が、そこに横たわっている歴史的経緯があります。
新約聖書の原典は、もともとギリシャ語ですが、ラテン語に翻訳された聖書は、すでに4世紀の時点で、写本ごとに食い違っていると言われるほど混乱しており、ついにAD381年、教皇ダマスス一世が、ヒエロニムス(347~419年)にラテン語聖書の校訂を命じざるを得なかったほどでした。
また、原典であるギリシャ語聖書そのものも大変混乱しており、現代においてさえ、真の原典を復元するための努力として「本文批評」が研究され続けています。その最新の研究成果に基づいて出版されるネストレ=アーラントのギリシャ語聖書は、いまや28版を重ねようとしています。その新約聖書には、数多くの写本の“異読”が、欄外の註(脚注)として記載されています。それを見ればギリシャ語原典の写本が、如何に乱れていたのかがよく分かります。
また、新約聖書で、宣教上の配慮から一時期、削除されたと考えられる個所として、ヨハネによる福音書8章の「姦淫の女」の話があります。
さらに、マタイによる福音書では、14章3節「ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで」の“ピリポ”という名前が間違っているため、5世紀頃の後期筆記者(ベザ写本)は、その名を削除したりしているのです。
このように、聖書それ自体が、いろいろな諸事情を抱えながら、今日まで伝えられてきたのです。すなわち、書き換え、書き足し、あるいは削除といったことまでが行われ、時代や環境とともに変遷してきているのです。反対牧師は、そのような事実については、統一教会信者に教えようとしません。
山崎浩子さんを脱会説得する際に、『原理講論』を批判した反対牧師は、「真理とは、ぐらぐらしない、動かないものという意味ですね」と定義し、ぐらぐらし、動いている『原理講論』は真理ではない、と批判しているのですが、その観点から言えば、「聖書も真理ではない」ということになってしまいます。
キリスト教は、聖書を“神の啓示”と信じてきました。特にプロテスタント教会では、聖書の文字を“真理”と同一視する傾向性をもっています。ところが、 19世紀以降、聖書批評学が急速に進展して、聖書の中に相互矛盾や記述ミス等が含まれていることが指摘されるようになり、イエスが語ったとされる言葉にさえ、誤りが含まれていることが明るみになっていきました。この聖書批評学の進展によって、「聖書は間違っていた」「真理ではなかった」として、信仰を失うクリスチャンが出てくるようになりました。
このようなことを知っている反対牧師は、言わば、同様の手口でもって統一教会信者の信仰に揺さぶりを掛けて、「原理講論は間違い」「真理ではない」として、信仰の破壊工作をしているのです。このような脱会説得によって信仰を失った統一教会信者は、統一教会を激しく憎悪するようになり、裁判闘争までするようになっていくのです。
聖書の問題点は棚に上げて、統一教会批判に躍起になる反対牧師には、悪意があるとしか言いようがなく、不誠実さを感じざるを得ません。