Q&A
Q
「『原理講論』の聖句引用はデタラメである。このようなものが、真理であるはずがない」という反対派の批判を聞きました。この問題について、どう考えたら良いのでしょうか?
A
『原理講論』に不適切と思える聖句引用があることは事実です。しかし、これは「表現上の完成度レベル」の問題であって、統一原理の内容をより分かり易く説明しようとの意図から引用した聖句が、ふさわしくなかったというもので、統一原理の理論そのものが間違っているというのではありません。
実は、ユダヤ教側から追求されざるを得ない「旧約聖書からの聖句の引用問題」が、新約聖書にもあり、基盤のなかった草創期の初代教会の人たちは、当時、圧倒的な基盤を誇っていたユダヤ教徒らから、「あまりにもいいかげんな聖書の引用、ねじ曲げ……」と非難されざるを得なかった状況にあったことを知らなければなりません。
この新約聖書が抱えている「聖句の引用問題」について、出村彰・宮谷宣史編『聖書解釈の歴史』(日本基督教団出版局)で、橋本滋男氏(同志社大学神学部教授)は次のように述べています。
「福音書における旧約句の利用は、上述のようにユダヤ教と共通する解釈が意識的な検討なしに採り入れられており、しかもそれらは伝承の諸段階で一貫していたわけでもない。また旧約引用の基本目的は、イエスの事件が人間にとって決定的な救済の事件であり、旧約の言葉の成就であることを示すところにあるが、それはあくまでもイエスを救い主と信じる信仰を前提にし、その立場からなされる旧約解釈であって、逆に旧約を深く読めば自ずとキリスト教信仰に到達するというのではない。したがってケリュグマの正当性を弁証するための旧約引用であるにもかかわらず、具体的には矛盾や問題を孕む箇所が見い出されるのである」(67ページ)
さらに、橋本滋男氏は、『新共同訳・新約聖書注解I』(日本基督教団出版局)の「マタイ伝注解」でも、次のように述べています。
「彼(マタイ伝記者)は自らの神学の根拠づけのために旧約を利用しながらもそれに拘束されず、適当に変更を加えている。つまり彼においていわば旧約聖書はキリスト論のための道具と化している。こんなふうでは果たしてユダヤ教徒を説得できるのか問題が残るであろう。実際ユダヤ教徒はキリスト教の側が旧約聖書を適当に利用し、不正確な旧約本文でユダヤ教を攻撃することを長く嘆くことになり、後に旧約聖書のギリシア語新改訳(アクィラ訳/Aquila)を作ることになる」(37~38ページ)
このように、現在、反対牧師が『原理講論』を批判するのと同様に、新約聖書に引用された旧約聖書からの引用も、ユダヤ教徒から見れば「あまりにもいいかげんな聖書の引用、ねじ曲げ……」と批判される内容だったのです。
結局、反対牧師たちは、自分たちの正典である新約聖書に含まれている同様の問題点はひた隠しにしたまま、統一教会員を脱会に追い込むために、『原理講論』の聖句の引用問題などをあら探しし、脱会説得のために利用(悪用?)しているのです。