Q&A
Q
統一教会側は“血分け”を否定するが、「堕落論で教えているように、堕落の経路がすべてセックスの関係だったなら、これを回復(復帰)するのは逆のセックスの経路が必要だ。だから“血分け”を間違いなくしているはず」という反対派の批判を聞きました。どう考えたらいいのでしょうか?
A
このような邪推をし、流言飛語しているのは浅見定雄氏です。浅見氏は『統一協会ボディコントロールの恐怖』(かもがわ出版)の中で、天使長ルーシェルを L、エバをE、アダムをA、と表示しながら、統一教会には「セックスで清め返す」という教えがあるとして、次のように邪推します。
「堕落の経緯がL→E→Aとすべてセックスの関係だったとすれば、これを回復(復帰)するのはこれと逆のセックス経路がどうしても必要なはずである。堕落天使ルーシェルがエバを汚し、そのエバがこんどはアダムを汚したのだとすれば、逆に新しい『無原罪』ルーシェル(L’)が『清い』セックスによって人間の女(E’)を清め、そうして清まった女がつぎに男(A’)を清めればよいのだ。……彼らの論理では、イエスは本当は『第二のルーシェル』でなければならないのだ。そうでないと、最初のルーシェルがセックスで汚した人間の女をセックスで『清め返す』ことはできないからである」(16ページ)
浅見氏の解釈がねじ曲がってしまうのは、浅見氏が『原理講論』をトータル的に把握していないためです。浅見氏は、堕落論の要点である、
- 天使長ルーシェルとエバの霊的堕落の問題が、単なる“性関係”を結んだというレベルの問題ではなく、夫婦となるべき関係でもないのに、“不倫の関係”を結んだという「創造原理に反する行為」であった点
- その動機が、神の愛ではなく、「自己中心の愛」であるところに問題があった
という重大な2点を見落としています。これらの重要点を見落とすようでは、堕落論はおろか、統一原理のイロハも分かっていないと断定せざるを得ません。『原理講論』には、「アブラハムは彼の妻サライと兄妹の立場から、彼女をパロの妻として奪われたが、神がパロを罰したので、再びその妻を取り戻すと同時に、連れていった彼の甥ロトと多くの財物を携えて、エジプトを出てきた。アブラハムは自分でも知らずに、アダムの家庭の立場を蕩減復帰する象徴的な条件を立てるために、このような摂理路程を歩まなければならなかった(318ページ)と論じられています。これは創世記12章10節~13章1節の物語を解釈したものです。
【図1】
復帰摂理の中心人物アブラハムは、アダムの立場を蕩減する人物として、一旦、天使長の立場を象徴するパロに妻サライ(妹)を奪われそうになったのですが、再びサライを取り戻す路程を歩みました。これはアダム家庭で起こった堕落の内容を反対の経路で蕩減復帰する路程であったと解説しています。
この場合【図1参照】、アダムの立場を蕩減するアブラハムはアダムのままであり、また、天使長の立場のパロも、やはり天使長のままであって、それは霊的堕落をするときに、夫婦となるべきではない二人(天使長とエバ)が“不倫の愛”の関係を結んで堕落したので、(1)逆にサライ(=エバ)がパロ(=天使長)と“不倫しない”で、「創造原理の相手」である夫アブラハム(=アダム)のもとに帰ってきた、(2)サライは夫の生命と自分の貞操を守るために、“自己中心的な動機”ではなく、「神を中心とした生命がけの心情」をもって、偽りの愛による「誘惑」の試練を乗り越えたのです。
すなわち、堕落が「不倫の問題」だったので「不倫しない」こと、さらには、堕落が「自己中心の動機」によって引き起こされたので、今度は「神を中心とした動機」に立つこと。このように反対の道を歩んだアブラハム路程こそが、まさに復帰ということを意味するのです。
浅見氏が言う、イエスは「第2のルーシェル」だとか、第2のルーシェルであるメシヤがセックスで「清め返す」といった屁理屈は、統一教会では全く教えていない、浅見氏の邪推にすぎません。浅見氏は、統一教会の教えのイロハさえも分かっていないのに、「統一教会の教えはこうだ」と断定的に述べているのです。