統一教会の信者に対する、拉致監禁・強制改宗について、その根絶を求めます
よくあるご質問

Q&A

長く厳しかった日本でのキリシタン迫害が終わったのは、どのような経緯からでしょうか?

残念ながら、日本政府自らが「信教の自由」に目覚めることでキリシタン迫害が終わったのではなく、きっかけは「浦上四番崩れ」に対する諸外国からの非難、外圧によるものです。

キリシタン迫害において、幕末から明治初期にかけて「浦上四番崩れ」と呼ばれる大迫害が起こりました。 徳川幕府が鎖国を解いた7年後の1865年、長崎に大浦天主堂が建ちましたが、そのとき、長く潜伏してきた多くのキリシタンたちが名乗りを上げました。これは世界宗教史の奇跡とさえ言われました。その2年後の1867年7月、幕府の捕り手が浦上に乗り込み、キリシタンを拉致したのです。

信者は拷問に屈して一度は棄教を表明しますが、すぐに信仰を持ち直しました。そこで、翌68年7月、再度、信者は役所に呼び出され、次々に捕縛され、福山、津和野をはじめ、鹿児島、広島、岡山、姫路、松江、鳥取、徳島、高松、松山、高知、和歌山、名古屋、金沢、富山など住み慣れた家から別の場所に移され、そこで棄教を強要されたのです。彼らキリシタンは犬の扱いを受け、1匹、2匹と数えられ、見知らぬ土地で監禁されて、棄教を迫られたのです。

こうして、キリシタン迫害がなされている最中の1871年11月、岩倉具視を特命全権大使とする岩倉使節団が横浜港を発ち、1年10か月にわたって、条約改正問題の交渉のため、アメリカを経て欧州諸国を訪問しました。その際、キリシタンを迫害し、信教の自由を認めない野蛮な国とは条約を結べないとの激しい非難を受けたのです。

この岩倉使節団の経緯を、永井隆著『乙女峠』(中央出版社)は、次のように述べています。

「どこの国に行っても、日本政府が人民に信仰の自由を与えていないのは野蛮国だ、という非難の世論がごうごうと岩倉大使一行を攻撃し、ことにベルギーのブリュッセルでは、一行の乗った馬車が市中を通るとき、市民がおしよせてきて口々に非難し、人民に信仰の自由をゆるし、流されている浦上のキリシタンを牢から出せ、と叫んでやみません。

……ついに使節から東京に電報が打たれました。『吾人は行く所として、切支丹追放者と信教自由とのために外国人民の強訴に接する、この際、前者はすみやかにこれを解放し、後者については幾分の自由寛大の意向を表明しなくては、とうてい外国臣民の友誼的譲与を期待することはできない。』

この電報は政府を驚かしました。……小さいと思った宗教問題が、平等条約を結ぶのにいちばん大きいじゃまになっていたのをはじめて知ったのでした」(72~73ページ)

このような諸外国からの外圧を受けた日本政府は、ついに1873年2月21日、切支丹禁令の高札を取り去り、3月14日に、各地に流されていた浦上の信者を故郷に帰したのです。こうして信教の自由を与えた日本は、やっと野蛮国の汚名を返上し、諸外国と平等な条約を結ぶことができたのです。

現在、拉致監禁事件を見て見ぬ振りをする日本国家は、世界の真のリーダー国となるために、このような過去の歴史的経緯から、多くのものを学ぶ必要があると言えます。

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