Q&A
Q
キリスト教史の中で、日本におけるキリシタン迫害が最も厳しい迫害であったという話を聞きました。迫害といえば、ローマ帝国でのキリスト教迫害が有名ですが、日本のキリシタン迫害が最も厳しかったと言われる理由を教えてください。
A
1597年2月、長崎26聖人の殉教事件が起こりました。以来、日本は長く厳しいキリシタン迫害時代に入っていきました。このキリシタン迫害について、キリシタン史研究家の片岡弥吉氏は、次のように述べています。
「世界史の中で、ローマ帝政時代300年のキリスト教迫害はもっともよく知られている。けれども、徳川幕府のキリシタン迫害には及ばない。ローマの迫害は皇帝によって寛厳があり、また迫害が中断されたこともあったし、教皇以下神父たちもいて祭儀も行われた。徳川幕府の250年に及ぶ迫害はやむことなく、その検索も緻密・厳重をきわめており、神父も殉教しつくして、ひとりの聖職者もいない時代が7世代にわたる久しきに及んだ」(『探訪・大航海時代の日本―キリシタンの悲劇』小学館、36ページ)
日本におけるキリシタン迫害が他に類を見ないほどに厳しかった理由は、迫害者が信者に「殉教者の道」を選ぶことをさせず、棄教するまで監禁して拷問し続けるという方策を取ったためでした。
1607年に来日した宣教師オルファネルは、当時の迫害状況を次のように報告しています。
「キリシタンを皆殺しにすることはやさしいことだったが、迫害者たちは、それより転ばせる(棄教させる)方法を選んだ。理由はキリシタンを皆殺しにしても彼らを自分の意に従わせえなかったという侮辱を受けたことになり、自分たちの負けになるからである。迫害者たちが望んだのは、己れの命令に(キリシタンを)従わせることだった」(前掲書、40ページ)
こうして迫害者は、棄教のために有効と思われるあらゆる手段をとったのです。拷問の方法も陰湿で、残酷なものが数多くありました。 文献から具体的に述べると、
- 火あぶり――
生身の人間を焼き殺す方法で、柱に縛り、苦しみを長引かせて転ぶ機会を与えるために、縛った縄も弱くし、薪は柱から離しておく。 - 竹鋸引き――
キリシタンを街道わきの柱にくくり、首に刀傷をつけ、そばに竹鋸をおく。刑吏や通行人がこの竹鋸で首の傷あとを引き裂いていく。 - 穴つり――
深さ2メートル、直径1メートほどの穴のそばにつり台を立て、信者をつり台から穴の中に逆つりする。内臓が逆転したり、頭に充血したりして早く死なないよう胴体を綱でぐるぐる巻きにし、耳のところに小さな穴を開けておく。中央を半円にくり抜いた板2枚を、腰に当てて蓋にする。その苦痛を倍加させるために、穴の底に汚物を入れることもある。 - 雲仙の地獄責め――
雲仙の硫黄泉の噴出口に連れて行き、長い柄の柄杓で熱湯を汲み、その柄杓の底に開けられた小さな穴からしたたる滴を、裸の肉体のいたるところに注ぐ。苦痛を長引かせるために、医師が焼けただれた傷に手当てを加え、小屋に入れて藁の上に休ませた。1日に1回、1椀の飯と鰯1尾が食事として与えられ、拷問は幾日もつづいた。(参考、前掲書および岡田章雄編『日本の歴史10―キリシタンの世紀』から)
以上のように、キリシタンを殉教させるのではなく、棄教目的のために監禁したうえ、さまざまなかたちで拷問したのです。中でも「穴つり」は残忍で、当時、来日していた反キリシタンのオランダ人でさえ、その陰湿な拷問方法を嫌悪したと言います。また「雲仙の地獄責め」は、拷問で受けた傷の手当てをし、食事を与え、体力が持ち直せば、再び拷問をする方法がとられました。棄教させるためには、まさに“あめとムチ”方式でキリシタンの心身をもてあそんだのです。このように、日本のキリシタン迫害は、信者が信仰を捨てない限りは、監禁がいつまでも継続されたのです。
長い間迫害されたキリスト教が、今度は迫害する側に回り、肉体に対する拷問は基本的にないにせよ、棄教目的の監禁をして、統一教会信者が信仰を棄てない限り、いつまでも監禁を継続する方法を取っているのです。これは、どれほど苦しいことでしょうか。迫害史の中で、最も残忍と言われる方法が継承されているのです。
一部のキリスト教牧師らが、親族と組んで信者を監禁し、棄教を目的に脱会説得しているのは極めて問題であり、この信教の自由の侵害行為を“親子の話し合い”の名のもとで放置してきた日本社会は、後世から大きな断罪を受けることでしょう。